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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ホロドモール(〔ウクライナ語で「飢饉(ホロド)」で「苦死(モール)」させることを意する。〕;)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた各地域でおきた人工的な大飢饉である〔Bloodlands : Europe between Hitler and Stalin / Timothy Snyder; New York: Basic Books, 2010〕。 主な地域は以下 * ソビエト連邦のウクライナ社会主義ソビエト共和国 * カザフ・ソビエト社会主義共和国 * ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国のクバーニ、ヴォルガ川沿岸地域、南ウラル、北シベリアなど ウクライナ人たちは強制移住により、家畜や農地を奪われたために400万人から1,450万人が死亡した。また、600万人以上の出生が抑制された〔。 この大飢饉が当時のソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンによる計画的な飢餓ではないかとする議論が長年続いていた。2006年にウクライナ議会は、「ウクライナ人に対するジェノサイド」であると認定した〔 ウクライナにおける1932年‐1933年のホロドモールに関する法律(ウクライナ) 〕。また、米英など西側諸国においても同様の見解が示されており、ソビエト連邦による犯罪行為であるとしている〔 ウクライナ大統領の公式サイト。ホロドモールの国際的承認 。2009年1月12日。〕。 アルメニア人虐殺、ホロコースト、ポル・ポト派による虐殺、ルワンダ虐殺等と並んで20世紀の最大の悲劇の一つである〔 Shelton, Dinah. Encyclopedia of Genocide and Crimes Against Humanity. Macmillan Library Reference, 2004. pp. 1059. ISBN 0028658507, ウクライナにおける1932年‐1933年のホロドモールに関する法律(ウクライナ) 〕。 == 概要 == ウクライナでは1919年のウクライナ社会主義ソビエト共和国の成立を経て、1922年にはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国や白ロシア・ソビエト社会主義共和国とともにソビエト連邦を構成した。ソビエト・ロシアにとって、ウクライナから収穫される小麦の輸出は貴重な外貨獲得手段であった。飢餓が発生してもウクライナの小麦は徴発され、輸出に回され続けたため、それが更なる食糧不足を招くことになった(飢餓輸出)。 1930年代初め頃には農業集団化は自発的に行われていたが、次第に強制的なものになっていった。ソ連のOGPUは、ウクライナ民族主義者、ウクライナ人の知識人、集団化政策への反対者、そして共産党政権にとって脅威であると見なした者を容赦なく処罰した。豊かな土壌に恵まれたウクライナでも、課せられた収穫高の達成は困難で、更に当局による厳しい食料徴発に耐えられず、不満を表明する動きが現われた。また、農村部は民族主義者の溜まり場として目をつけられていた。 スタニッツァ・ボルタフスカヤという人口4万人の村は、食料調達に応じる事が出来ず、村の住民が丸ごと追い立てられ、男性は白海・バルト海運河建設へ、女性はウラルのステップ地帯に送られ、離散を余儀なくされた。 集団化政策の強行は減産を招き、割高を提出すると農民達には食料が残らなかった。更に、数々の条例が制定された。農産物は全て人民に属するものとされ、パンの取引や調達不達成、落ち穂拾い、穂を刈ると「人民の財産を収奪した」という罪状で10年の刑を課せられた。1933年春には、エンバクや、フダンソウといった飼料を「悪用」すると「10年は強制収容所へ送られる」と言われた。1932年12月27日、国内パスポート制が導入され、農民達は農奴さながらに村や集団農場に縛り付けられた。ウクライナの国境は封鎖され、自由な出入りは許されず、首尾よく脱出してパンを持ち帰った農民達もその場でパンを没収された。 都市から派遣された労働者や党メンバーから構成されたオルグ団は空中パトロールで畑を監視し、農場にはコムソモールのメンバーが見張りに送り込まれ、肉親を告発すれば子供にも食物や衣類やメダルが与えられた。党の活動家達は家々を回り、食卓から焼いたパンを、鍋からカーシャまでも奪っていったと言われる。食料を没収された農民達はジャガイモで飢えをしのぎ、鳥や犬や猫、ドングリやイラクサまで食べた。遂に人々は病死した馬や人間の死体を掘り起こして食べるに至り、その結果多数の人間が病死しており、赤ん坊を食べた事さえもあった。通りには死体が転がり、所々に山積みされ、死臭が漂っていた。取り締まりや死体処理作業の為都市から人が送り込まれたものの、逃げ帰る者も多かった。子供を持つ親は誘拐を恐れて子供達を戸外へ出さなくなった。形ばかりの診療にあたった医師達には、「飢え」という言葉を使う事が禁じられ、診断書には婉曲的な表現が用いられた。困り果てた農民達が村ソビエトに陳情に行っても「隠しているパンでも食べていろ」と言われるだけだった。 ソ連政府が飢餓の事実を認める事はウクライナ農民に譲歩することを意味したが、5ヵ年計画の成功を宣伝し、外交的承認を得ようとしていたソ連としては飢饉を認めるわけにはいかなかった。国際政治の場での名誉失墜は避けねばならなかったのである。当時ソ連に招かれていたバーナード・ショウやH・G・ウェルズ、ニューヨーク・タイムズ記者のウォルター・デュランティ(Walter Duranty)等は、「模範的な運営が成されている農村」を見せられ、当局の望み通りの視察報告を行っただけであった。一方、英国、カナダ、スイス、オランダ等各国及び国際連盟や国際赤十字を通じて、ウクライナ飢饉に手を打つようソ連政府に要請をおこなったが、ソ連政府は頑として飢饉の存在を認めず、「存在しない飢饉への救済は不要」という一点張りだった。 ウクライナは想像を絶する飢餓に遭い、反ソ・反共感情が高まった。そのため、のちに独ソ戦によりヒトラーのドイツ軍が侵攻した時は「解放軍」として喜んで歓迎し、大勢のウクライナ人が兵士に志願し共産党員を引き渡すなどドイツの支配に積極的に加担したほどであった。しかし、生存圏の拡大とウクライナ人を含むスラヴ系諸民族の排除を目指すナチス・ドイツもまた、ウクライナ人に過酷な政策を実施した〔物語ウクライナの歴史 中公新書 ヨーロッパ最後の大国 〕。 結局、ソ連政府が一連の飢餓の事実を認めるのは、1980年代まで待たなければならなかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホロドモール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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