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ホワイトマーシュの戦い : ミニ英和和英辞書
ホワイトマーシュの戦い[-のたたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ホワイトマーシュの戦い : ウィキペディア日本語版
ホワイトマーシュの戦い[-のたたかい]

ホワイトマーシュの戦い(-のたたかい、英:Battle of White Marsh)は、アメリカ独立戦争フィラデルフィア方面作戦中の1777年12月5日 から12月8日にかけて、現在のペンシルベニア州フォート・ワシントン近くホワイトマーシュで戦われた戦闘である。一連の小競り合いの形をとったこの戦闘は、1777年イギリス軍とアメリカ大陸軍が会したものでは最後のものとなった。イギリス軍の指揮官ウィリアム・ハウは占領していたフィラデルフィアから大部隊を引き出し、冬が始まる前にジョージ・ワシントンと大陸軍を潰そうと考えた。ワシントンはイギリス軍の攻撃を撥ね返し、ハウはワシントンとの会戦で決着をつけられないまま、フィラデルフィアに引き返した。イギリス軍が撤退した後で、ワシントン軍はバレーフォージの冬の宿営地に引き込むことになった。
== 背景 ==
1777年10月4日ジャーマンタウンの戦いでの敗北後、ワシントン軍はパーキオメン・クリークを越えてスキッパック・パイク沿いにポーリングズミルまで撤退し、そこで10月8日まで駐屯していた。その後、スキッパック・パイクを東に移動し、フォーティフット道路で左に折れてサムニータウン・パイクを進み、タワメンシン町にあるカルプスビル近くのフレデリック・ウォムポールの所有地に宿営地を張った。そこにいる間に、ジャーマンタウンの戦いで受けた傷がもとで、フランシス・ナッシュ将軍が死に、メノナイト集合墓地に葬られた。10月16日、ワシントン軍は二手に分かれ、1軍はフォーティフット道路を経てスキッパック・パイクを進み、もう1軍はサムニータウン・パイクからノースウェールズ道路を進んだ。10月20日、この2軍はスキッパック・パイクを下ってホィットペインに至った。11月2日、ワシントンは1軍をスキッパック・パイクから、1軍をモリス道路から現在のペンシルベニア・アベニューに進ませ、フィラデルフィアの北西約13マイル (21 km)のホワイトマーシュまで進軍させた。

12月早く、イギリス軍の指揮官ウィリアム・ハウ将軍は冬が来る前にワシントン軍を叩いておくためのその年最後の機会を捉えようと考え、新しい宿営地に移動しつつあるという噂が聞こえてきたアメリカ大陸軍に対する攻撃準備を始めた。

ジョン・クラーク少佐が指導するワシントンの情報網は、クエーカー教徒の主婦リディア・ダラーを通じて、イギリス軍が大陸軍を急襲する計画を立てていることを掴んだ。ハウが約14,000名の部隊を率いて11月4日の深夜にフィラデルフィアから進発したとき、大陸軍も迎撃準備が整っていた。イギリス軍の前衛はチャールズ・コーンウォリスが率い、ジャーマンタウン・パイクを進んだ。第2陣はドイツ人傭兵部隊を率いたクニプハウゼン将軍が大陸軍の左翼に向かった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホワイトマーシュの戦い」の詳細全文を読む




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