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ホンダロックサッカー部 : ミニ英和和英辞書
ホンダロックサッカー部[ぶ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ロック : [ろっく]
  1. (n,vs) (1) lock 2. (2) rock 3. (P), (n,vs) (1) lock/(2) rock
カー : [かー]
 【名詞】 1. car 2. (n) car
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ホンダロックサッカー部 ( リダイレクト:ホンダロックSC ) : ウィキペディア日本語版
ホンダロックSC[ほんだろっく えすしー]

ホンダロックSC(ホンダロック エスシー、)は、宮崎県宮崎市を本拠地とする社会人サッカークラブ(実業団)。正式名称は「株式会社ホンダロックサッカー部」である。
== 概要・歴史 ==
1964年、ホンダロックが社内福利厚生を目的に「本田ロック黒潮会サッカー部」として創立。選手は現在に至るまで全員がホンダロックの社員選手で構成される。本田技研工業フットボールクラブ〔Honda FCも2002年から2013年までは全員が本田技研工業と社員契約(正社員・契約社員<短期・長期不問>)のみの純アマチュアだったが、2014年からプロの受け入れを再開している〕とは異なり、ほぼ毎年シーズンオフ中にて開催されるセレクション等でJリーグチームを初めとするプロチーム及び社会人チームからの移籍選手をも受け入れているが、この場合も社員選手として獲得している。その後、宮崎県社会人リーグで通算11回の優勝を果たした。
;2004年
:九州サッカーリーグで初優勝し、JFL昇格を懸けた全国地域リーグ決勝大会に進出するが3位に終わった。自動昇格の条件である2位以内に入らなかったが、国士舘大学サッカー部の不祥事によるJFL脱退で枠が空いたことにより2005年度からのJFL昇格が決まった。また宮崎県代表として出場した第84回天皇杯ではJ2・コンサドーレ札幌に敗退。
;2005年
:JFL昇格初戦は浜松市にある本田技研本社のチーム、Honda FCとの「ホンダ・ダービー」となった。このシーズンは15位に終わったが、大串良秀が1シーズン4本のフリーキックによるゴール(JFLタイ記録)を決めるなど、14得点の活躍を見せた。
;2006年
:前期は16位で折り返したが後期は思うように成績が伸びず、結局年間18位で入れ替え戦へ回り、地域リーグ決勝大会2位のFC岐阜を相手に第1戦0-4、第2戦1-4で連敗、2007年の九州リーグ降格が決定した。
;2007年
:3年ぶりの九州リーグ参戦となり、1年でのJFL復帰を目指した。最終節前の21節に勝利して首位を守り、この時点で地域リーグ決勝大会の出場権を確保した。しかし最終節のV・ファーレン長崎との試合では、終盤立て続けに2失点し、1-2で逆転負け。その前に行われた試合で勝利を収めていた2位のニューウェーブ北九州に逆転優勝を許すこととなった。最終成績が2位であったため、同年の全国地域リーグ決勝大会には出場したが、予選リーグで初戦グルージャ盛岡に勝利したものの2戦目で最終的に優勝(JFL昇格)したファジアーノ岡山に敗退し2位となったため決勝ラウンド進出を逃し、1年でのJFL復帰はならなかった。
;2008年
:序盤に一時首位に立つものの終盤失速し、3位に終わりリーグ戦での地域リーグ決勝大会の出場権を確保できなかった。しかし、10月の全国社会人サッカー選手権大会において3位になり、本年からこの大会の上位2チームに与えられる地域リーグ決勝大会出場権を繰り上げで獲得した〔同年の全国社会人選手権で優勝したAC長野パルセイロ北信越フットボールリーグの優勝によってすでに地域リーグ決勝大会の出場権を得ていたため、ホンダロックが繰り上がった。〕。
:11月22日から12月1日にかけて開催された地域リーグ決勝大会では、1次ラウンドA組を2勝1敗の首位で通過し、決勝ラウンドは1勝2敗の3位で終えた〔対戦順に、九州サッカーリーグ2位のV・ファーレン長崎に0-5で90分負け、中国サッカーリーグ優勝のレノファ山口戦を2-0で90分勝ち、関東サッカーリーグ優勝のFC町田ゼルビアには1-2で90分負け。〕 2この年はJFLから3チームのJリーグ参入が決定したため、3位のホンダロックは入れ替え戦なしで3年ぶりのJFL復帰を達成した。
;2009年
:3年ぶりのJFL復帰。下馬評ではJFL残留争いだったが、得点こそ少ないものの守備が安定し、一部上位チームよりも少ない失点数で一時は中位まで順位を上げた時期もあった。第89回天皇杯に宮崎県代表として出場、2回戦ではJ2の東京ヴェルディから得たPKを前田悠佑が決め、東京Vの攻撃は持ち前の堅い守備で切り抜けて1-0で勝利し、8度目の出場で初めてJリーグクラブを倒し、かつ同大会ではJFL勢で唯一の3回戦進出チームとなった。3回戦ではJ1の名古屋グランパスに0-2で敗れた。リーグ戦も13位となり、過去最高順位で2009年を終えた。
;2010年
:宮崎県内での口蹄疫発生に伴い、感染拡大防止のため宮崎県内で開催しているホームゲームを5月下旬から中止・順延あるいは対戦チームのホームゲームとして開催に変更となった(順延となった試合は8月中に開催された)。また7月の2試合の主催試合も無観客試合(一般ファン立入禁止。会場も非公表→その後2011年2月に会場説明が解禁となり「フェニックスリゾートイベントスペース」(宮崎市)で開催したと公表)とする処置をとった。詳細は2010年日本における口蹄疫の流行を参照。成績も決定力不足は相変わらずも守備は安定し、前年と同じ13位で終了した。
;2011年
:1月に口蹄疫からの復興として元日本代表中田英寿率いる「TAKE ACTION F.C.」と対戦。釘崎康臣麻生大治郎が得点を挙げ2-2とした。これまでチームに外国籍の選手はそれまでいなかったが、黄大俊(韓国籍)が初めて外国籍の選手での入団(入社)そして、チーム初となる天皇杯のJFLシード権を獲得した(東北大震災の影響により選出方法が変わり、前期7節から開始し、11試合を行なった時点での順位上位2チームにシード権だったため)。
:シーズン序盤でGK2人がケガにより戦線離脱しGKがいない事態となったが、コーチである川島正士が臨時で現場復帰している。
:この年、JFL参加してから1度も勝てていなかったHonda FCに後期第9節に3-2で初勝利。
:シーズン途中で監督の池田竜市が退任、後任にはコーチの城和憲(城彰二の弟)が昇格。
:前半戦は好調で首位争いに加わっていたが、後期に入ると連敗などで失速。しかし、過去最高位になる8位で終了。
:この年で長年ホンダロックSCを支えたDFの谷口研二、白川伸也、澤村憲司が現役引退した。
;2012年
:チームの要であったMF前田悠佑がV・ファーレン長崎、DF小原拓也がFC琉球へ移籍。この年入団セレクションは行われなかったものの、大学生の肝付・串間、セレッソU18から鶴崎を獲得。また各選手のポジションのコンバート(釘崎がFW専念、FW熊元がDFなど)など新体制で臨むものの、開幕から自己ワースト記録の10連敗を喫してしまう。復調の兆しを見せるも天皇杯宮崎県予選決勝にて宮崎産業経営大学に敗退、宮崎県代表として長く出場していたが、記録が途絶えた。
:リーグ戦は16位となり、本来なら地域リーグ決勝大会3位チームとの入れ替え戦となるが、SAGAWA SHIGA FCの活動休止・JFL脱退のため繰り上げでJFL残留となった。
;2013年
:監督が川島正士に代わったものの、シーズン当初から低迷し最終節で最下位に落ちた。しかし2014年よりJ3リーグ導入に伴い、10チームがJFLからJ3に
:加盟するためJFL残留となった。
;2014年
:前半戦を9位、後半戦を12位で終える。また、長崎で行われた「長崎がんばらんば国体」サッカー成人の部として諏訪園・串間・宮路・原田・麻生がメンバー入り。35年ぶりの宮崎県勢では優勝に貢献。またこの年で首藤・麻生・山下・原田・釘崎らが現役を引退している(ただし、社業への専念・コーチへの転身などで会社自体には引き続き在籍している者も多い)。
;2015年
:入団セレクションは行われず、MF山田貴文・岡田峻・坂本翔 FW米良智記が入団。キャッチフレーズは「一途」。
;2016年
:監督が谷口研二に代わった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホンダロックSC」の詳細全文を読む




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