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R125(アール125)は、かつて本田技研工業が製作した競技向けのオートバイであり、日本メーカーとして初めて日本国外でのオートバイレースに出場した車両である。 == 製作までの経緯 == 本田技研工業としてのレース活動は現会社の設立以前から本田宗一郎により行われているが、その頃の日本でのレースはダート走路の平面なオーバルトラックで行なうことが一般的〔当時はまだ舗装されたサーキットがなく、公道などを使用したレースも稀だった。〕で、本田技研工業(以下ホンダ)となった頃には市販のオートバイを改造した車両でレースに参加していたが、その中にはダートトラックで行われていたオートレース〔1954年11月に開設された大井オートレース場を除きオートレースは昭和30年代までダート走路だった。〕も含まれており創生期にはオートバイを競走車として参加させていた〔『定本 本田宗一郎伝』p.196〕。 1953年にオートレースの統括団体である日本小型自動車競走会連合会〔現在のJKA。〕(以下競走会)から、ブラジルのサンパウロで行われるオートバイレース〔当時レース名は『サンパウロ市制400年記念祭国際オートレース』などと訳されていた。〕への参加依頼がオートレースに参加しているメーカーへ届き、サンパウロ側が日本製の車両で4つのクラスに出場する合計10人ほどの選手を招待し同伴者を含め交通費と滞在費を負担する条件を提示していたことから、ホンダや目黒製作所(以下メグロ)など5社〔『定本 本田宗一郎伝』p.198 - 他3社は新明和工業(ポインター)・みづほ自動車製作所(キャブトン)・モナークモーター(モナーク)。〕が参加することになり、オートレース選手による選手団も結成されホンダ社員の大村美樹雄やメグロ所属の田代勝弘らがライダーとして発表された〔『モーターサイクリスト』1954年1月号 p.65 - この時点では稲垣国光・杉田和臣・田村三夫・山中(西方)義治らも選ばれていた。〕。 ところが、この話は最初に受けた外務省から車両製造を管轄する通産省へ送られたあと放置されたため〔『プロジェクトX 挑戦者たち 14』p.273〕競走会が話を知ったのは同年11月30日〔『日本モーターサイクル史』p.35〕の参加締切直前で、12月15日〔に遅れて参加の連絡をしたため「既に定員まで集まり締め切った」とサンパウロ側から返答されしまう。しかし再交渉により参加できる枠は追加で確保されたものの、招待費用の支給は交通費1人分だけとなった。これに対し3社が参加を辞退したが、ホンダとメグロは費用の不足分を負担してでも参加する意思を示し〔、ホンダが125ccクラスに1台、メグロが350ccクラスに1台、サンパウロへ参戦させることが決定した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホンダ・R125」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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