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ホーエンフリーデベルクの戦い : ミニ英和和英辞書
ホーエンフリーデベルクの戦い[たたかい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ホーエンフリーデベルクの戦い ( リダイレクト:ホーエンフリートベルクの戦い ) : ウィキペディア日本語版
ホーエンフリートベルクの戦い[ほーえんふりーとべるくのたたかい]

ホーエンフリートベルクの戦いSchlacht bei Hohenfriedeberg)は、1745年6月4日に行われたオーストリア継承戦争における会戦である。プロイセン軍と、オーストリアハプスブルク君主国)軍とザクセン軍の連合軍が戦い、プロイセン軍が勝利した。
== 背景 ==

1744年第二次シュレージエン戦争におけるプロイセンのベーメン侵攻は、トラウンの行った焦土戦術補給線攻撃の前に大量の脱走兵を出してプロイセンの大敗に終わった。
1745年、神聖ローマ皇帝カール7世が死去して大義名分を失い、一転して攻め込まれる側になったフリードリヒ大王は、シュレージエンを返還して和平を求めてはどうかという大臣ポデヴィルスの提案を否定して戦争継続を選び、軍の再編成を急がせた。大王の意図は、主力同士の一大決戦に持ち込んで戦況の挽回を図ることであった。一方のマリア・テレジアワルシャワ条約ザクセンにプロイセン領分割を約して同盟国とし、シュレージエン奪回を目指した。
春、ケーニヒグレーツに集結したロートリンゲン公子カール率いるオーストリア軍はザクセン=ヴァイセンフェルス公ヨハン・アドルフ2世のザクセン軍と合流し、シュレージエンへ進軍する。大王はオーストリア軍の設置した補給線から連合軍の目指す進路を読み取り、あわせてプロイセン軍は損害大で再建困難との偽情報を送ってオーストリア軍をシュレージエンに積極的に誘い込んだ。大王の計略にかかったカール公子は、プロイセン軍は戦力を大幅に低下させており、ブレスラウまで撤退し続けると考えた。実際には、プロイセン軍は損害を補充して再編成を完了しており、フランケンシュタインに集結していた。
5月末、連合軍はランデスフートから、ズデーテン山地を越えてシュレージエンに入った。これに対応して大王は軍をシュヴァイトニッツ周辺に移動させ、本営をアルト・ヤウエルニッヒに置いた。大王はシュヴァイトニッツの北、山越えルートの出入り口に当たるシュトリーガウ前面を決戦場と定め、連合軍が到着するまでの間、デュ・ムーランの部隊を置いて警戒させ、自身はヤウエルニッヒから何度も騎行して地形の偵察を行った。6月2日、オーストリア軍前衛部隊がシュトリーガウ西方郊外に現れたが、プロイセン軍は抵抗せずに場所を明け渡し、大王はシュトリーガウに若干の守備兵を入れるに留めた。
プロイセン軍はシュヴァイトニッツから動かないとの報告を受けて、連合軍首脳はスパイの報告通り、プロイセン軍はこの付近で抵抗することなくブレスラウに撤退するであろうと信じた。そうして6月3日、リーゼンゲビルゲを背景に連合軍6万超は山を下る最後の行軍を行い、大王の願い通りにシュトリーガウ郊外に到着した。土煙を盛大に生じさせながら、鼓笛隊の吹奏とともに軍旗をはためかせてやってくる連合軍の様子は、シュトリーガウ南西の丘から偵察していた大王にも良く見えていたと自身の著作にある。
カール公子は、宿営の便を考えて自軍をホーエンフリートベルクに、ザクセン軍をその北東ピルグラムスハインに配置して陣を敷いた。村を利用して陣を敷くことで兵士の負担を減らす目的があったが、これは両者の間に距離があって敵の攻撃を想定していない布陣だった。大王が決戦を企図しているとは予想もしないカール公子は、翌朝のシュトリーガウ攻撃をザクセンと打ち合わせると戦勝を確信して早々に床に就いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホーエンフリートベルクの戦い」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Battle of Hohenfriedberg 」があります。




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