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ホーカムホール : ミニ英和和英辞書
ホーカムホール[かむ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
カム : [かむ]
 【名詞】 1. cam 2. (n) cam

ホーカムホール ( リダイレクト:ホウカムホール ) : ウィキペディア日本語版
ホウカムホール[かむ]
ホウカムホール (Holkham Hall〔 "Holkham Hall" Collins Dictionary. n.d. 2016年2月15日閲覧〕)は、イギリスノーフォーク、ホウカム (Holkham) (英語版) 近郊にある18世紀に建てられたカントリー・ハウスである。この建物は初代レスター伯爵 (第5期) トマス・クック (Thomas Coke, 1st Earl of Leicester、1697年-1759年) (英語版)〔初代レスター伯爵トマス・クック(1697年–1759年)、ホウカムの建設者、甥の息子も初代レスター伯爵トマス・クック(1754年–1842年)である。息子を残さずに死んだので伯爵家は彼で絶えた。ホウカムはその後トマス・クックの甥であるウェンマン・ロバーツに渡され、ロバーツがクックの姓を継いだが、伯爵家は継げなかった。「ノーフォーク・カウンティにあるホウカムのレスター伯爵」の称号が1837年に創設されたのは、1754年に生まれていたロバーツの息子、トマス・クックに対してだった。この新しい称号はクックの政治と農業への貢献を認めて顕彰されたものだった。この伯爵家は新設のものであるので、彼も「初代」だった。今日ホウカムに住んでいるのは、その子孫である第8代レスター伯爵トマス・クックである。姓の "Coke" はクック("Cook")と発音される。〕〔レスター伯爵家はこれまで7度創設された。ホウカムの建設者であるトマス・クックは第5創設のレスター伯爵家初代である。その甥の息子は第7創設のレスター伯爵家の初代である。〕 がパッラーディオ様式により、建築家ウィリアム・ケント (1685年-1748年) の設計で、建築家で貴族バーリントン伯爵 (1694年-1753年) の支援を受けて建てた。
ホウカムホールはイングランドにおける最も美しいパッラーディオ建築復興様式による建物の一つであり、そのデザインの厳格さはその時期の他の多数の同様式による建築物の中で最もパッラーディオの理想に近かった。ホウカムエステートは一族の資産を最初に築いたエドワード・クック (1552年-1634年) により作り上げられた。彼はそこに住んだことはなかったが、1609年にニールズ荘園 (Neales manor) や他のノーフォークの多数の不動産を、6人の息子たちに与えるために購入した。彼の四男のジョンは不動産を承継し、1612年にその父の相続人のメリエル・ウィットニー (Meriel Wheatley) と結婚した。彼らは居宅であるヒルホールを作り、ジョンは1659年までに3つのホウカム荘園全ての完全な所有権を持つに至った。それはクック家つまりホウカムのレスター伯爵家に代々受け継がれる居宅となった。
ホールの内装は華やかに、とはいえ現代の基準ではいたってシンプルに飾り付けられ配置された。その装飾には、プライベートルームと来客用特別室 (State room) (英語版) の両方を、前者に負担をかけることなく同じスタイルで飾り付けるという制限があった〔Nicolson, Nigel (1965). ''Great Houses of Britain''. London: Hamlyn.〕。中央玄関はマーブル (大理石) ホールを通り、そこはダービーシャー産のピンクアラバスターで作られている。それはピアノ・ノビーレと一階の来客用特別室に繋がっている。これらの部屋の中で最も印象的なのは大広間 (Saloon) で、そこには赤のベルベット地の壁紙が貼られている。主要な特別室はそれぞれレイアウトとデザインが対称となっており、一部の部屋ではそのバランスのとれた効果を完全に達成するためにダミーのドアが配置されている。

== 建築家とパトロン ==

ホウカムホールは初代レスター伯爵トマス・クック (Thomas Coke, 1st Earl of Leicester、1697年-1759年) (英語版) 〔 により建てられた。彼は1697年生まれだった〔 Hiskey, Christine. "The Building of Holkham Hall: Newly Discovered Letters". ''Architectural History''. Volume 40, 1997. p.144–158.〕。文化的であり裕福だったクックは青年時代にグランド・ツアーに行き、1712年から1718年の6年間イングランドを離れた。彼は1715年にイタリアで、イングランドにおけるパッラーディオ建築復興ムーブメントの最前線にいた貴族・建築家のバーリントンウィリアム・ケントに出会い、パッラーディオ様式によるホウカムの邸宅のアイディアが考案されたと思われる〔Wilson, Michael I.''William Kent: Architect, Designer, Painter, Gardener, 1685–1748''. Routledge, 1984. p.173-176. ISBN 0-7100-9983-5〕。クックは新しく得た蔵書だけではなく、彼が計画した新しい邸宅を飾る美術や彫刻のコレクションと共にイングランドに戻った。しかしながら彼は帰国後無気力な生活を続け、飲酒とギャンブルと狩猟〔、及び闘鶏に興じた〔Hugh Montgomery-Massingberd, Christopher Simon Sykes. ''Great houses of England and Wales'' . London: Laurence King Publishing, 1994. p.336. ISBN 1-85669-053-9〕。彼は南海会社 (South Sea Company) へ悲惨ともいえる投資を行い、1720年の南海泡沫事件 (South Sea Bubble) の結果として生じた損失はクックの新しい邸宅の建築計画を10年以上遅らせることとなった〔。クックは1744年にレスター伯爵位を創設し、1759年に死没した。それはホウカムホール完成の5年前で、経済的損失から十分には回復していなかった。クックの妻マーガレット・タフトン夫人 (Margaret Tufton, Countess of Leicester、1700年-1775年) は、その後邸宅の仕上げや配置の監督を行うこととなった〔Holkham ''History'' 2016年2月15日閲覧〕。
1720年代の初めにトマス・クックはコーレン・キャンベル (Colen Campbell、1676年-1729年) を雇ったが、最も古いホウカムホールに関する業務及び建築計画は、トマスの下でマシュー・ブレッティンガム (1699年-1769年) により1726年に書かれたもので、それはバーリントンとケントにより策定された指針や理想に沿ったものであった。選択されたパッラーディオ復興様式はこの時点で、イングランドにおいてそれを復活させるものだった。その様式は内戦前のイングランドでは簡素な外観を持つもので、イニゴー・ジョーンズ (Inigo Jones、1573年-1652年) によって導入された〔Lees-Milne, James. ''The Age of Inigo Jones''. London: B. T. Batsford, 1953. p.54–56.〕。しかしながら王政復古の後それは民衆の人気という意味でバロック建築に取って代わられた。18世紀に人気だった「パッラーディオ復興」は16世紀のイタリアの建築家アンドレーア・パッラーディオ (Andrea Palladio、1508年-1580年) の作品の外観に概ね基づいたものだったが、それはパッラーディオの「比率」(proportion) に関する厳格なルールには従っていなかった。この様式は最終的には、今日イングランドで未だに人気のあるジョージア様式建築 (英語版) 〔Downs, Joseph. "The Tower Hill Room". ''Bulletin of the Pennsylvania Museum''. Volume 21, No. 96, October 1925. p.4–11.〕として一般的に参考とされるものに進化した。それは市街地・郊外双方の数多くの邸宅で採用された様式だったが、ホウカムホールはデザインの厳格性、及びパッラーディオの理想に最も近づいたという点で例外的だった。
トマス・クックはプロジェクトを監督したが、現場の建築業務は現場管理者として雇用されたノーフォークの建築家マシュー・ブレッティンガムに委託した。ブレッティンガムは既に建築家として伯爵領の建物の管理料として年50ポンド (2016年現在の貨幣価値で約7,000ポンド〔UK CPI inflation numbers based on data available from Gregory Clark (2015), "The Annual RPI and Average Earnings for Britain, 1209 to Present (New Series)" MeasuringWorth. 2016年2月17日閲覧〕) を受け取っていた〔Colvin, H. M. "A Biographical Dictionary of English Architects, 1660-1840". Cambridge, MA: Harvard University Press, 1954. 91.〕。ウィリアム・ケントは主に南西棟の内装、及び家族の生活のための区画、特に「ロング・ライブラリー」 (Long Library) を担当していた。ケントはクックが望んでいたものよりも遥かに豊富な装飾を提案し、多様な外装を施した。ブレッティンガムはホウカムホールを「私の人生における偉大な仕事」と考えており、「''The Plans and Elevations of the late Earl of Leicester's House at Holkham''」を出版したときには、ケントの関与に言及することなく、不遜にも自分自身を唯一の建築家として記述した。しかしながらこの著作の後の版では、ブレッティンガムの息子は、「全体的なアイディアは、最初ウィリアム・ケント氏の支援を受けてレスター伯爵とバーリントン伯爵により出された」ことを認めた〔。
1734年、最初の建物の基礎部分が作られた。しかしながら建築は、1764年に立派な邸宅が完成するまで30年間続いた〔Summerson, John (1954). ''Architecture in Britain, 1530 to 1830''. Baltimore, MD: Penguin Books.〕。
マーブルホール内の正面玄関の上の碑文には次の言葉が刻まれている。
(荒れた大地で計画し植栽し建築し、装飾した。そして18世紀半ばに住むこととなった。

レスター伯爵トマス・クック〔Benjamin, Clarke. "The British Gazetteer, Political, Commercial, Ecclesiastical, and Historical. Illustrated by a Full Set of Accurately Laid Down County Maps with All the Railways". H. G. Collins, 1852. p. 488.〕)

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ホウカムホール」の詳細全文を読む




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