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ホーギー・カーマイケル(Hoagy Carmichael, 1899年11月22日 – 1981年12月27日) は、アメリカ合衆国の作曲家、歌手、ピアニスト、バンドリーダー。本名はホーグランド・ハワード・カーマイケル(Hoagland Howard Carmichael)。 == 生涯 == インディアナ州ブルーミントンに、電気技師の父とピアニストの母の子として生まれる。6歳のときよりピアノと歌を始める。中学・高校とあまり裕福でない生活を送り、オートバイのチェーン工場や食肉工場で働くこともあった。 18歳のときピアノで稼ぎ始め、インディアナのジャズの大御所のレッグ・デュヴァル(Reg DuValle)と頻繁に共演し、デュヴァルよりジャズ・ピアノの即興演奏を学ぶ。インディアナ大学に入学して、ピアノで学費を稼ぎながら1925年に卒業し、1926年にインディアナ大学ブルーミントン校ロー・スクールを卒業し学位をとることとなる。学生生活のかたわら、ビックス・バイダーベックのバンドで演奏し、コルネットにも挑戦するが失敗する。ビックスの即興演奏およびクラシック音楽の感覚を学ぶ。ビックスの紹介で、ルイ・アームストロングに会う。このころより、作曲を始めている。1924年に「リバーボード・シャッフル」(''Riverboat Shuffle'')を作曲し、レコード録音がされる。1926年、マイアミ州で弁護士の仕事につき、インディアナ州に戻っても続けるが、1927年に弁護士業務をやめて音楽業界での活躍に専念する。 1927年、ジャズのスタンダード・ナンバーで知られる「スターダスト」を作曲する。インディアナ州リッチモンドの Gennett 社より、作曲者カーマイケルのピアノ演奏でレコード録音されたものがヒットする。この曲には、ミッチェル・パリッシュによって歌詞がつけられる。この曲は、全世界中に知られ、日本でも広く聴かれ第11回NHK紅白歌合戦(1960年度)の歌唱曲にもなりザ・ピーナッツらにカヴァーされている。1930年、「我が心のジョージア」を作曲するが、この曲もヒットして、レイ・チャールズのカヴァーで後々まで世界中の聴衆に知られるようになる。1931年に、米国作曲家作詞家出版者協会に加盟する。多くの曲を作曲し、また演奏もして人気を集め、スウィング・ジャズの全盛期に一斉を風靡する。1937年から、ピアニスト役その他で映画に出演している。1942年に「スカイラーク」(''Skylark'')を作曲する。1952年に、映画『花嫁来たる』の曲「冷たき宵に」(''In the Cool, Cool, Cool of the Evening'')で、アカデミー歌曲賞を受賞する。1953年に、アメリカのテレビ番組『サタデー・マナイト・レヴュー』(''Saturday Night Review'')の司会者に抜擢されたが、しばらくして辞めている。1959年から1963年にかけてアメリカのテレビ局NBCで放映され、日本でもNETで放映された『ララミー牧場』にも出演した。 1960年にレイ・チャールズがふたたびヒットさせた「我が心のジョージア」が注目されるものの、作曲者のカーマイケルはレコード業界と折り合いが悪くなったが、作曲活動は続けられている。1962年公開の映画『ハタリ』で、自分であるはずの音楽担当責任者をヘンリー・マンシーニに代えられることもあった。1971年に、ソングライターズ・ホール・オブ・フェイム(Songwriters Hall of Fame)に殿堂入りを果たす。 1981年12月27日、カリフォルニア州で、心不全で死亡する。82歳であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホーギー・カーマイケル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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