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ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟()は、カザフスタン南部のテュルキスタン市にある、未完成に終わった廟建築である。12世紀に活躍したスーフィー(聖者)であるホージャ・アフマド・ヤサヴィーと、歴代のヤサヴィー教団の指導者の墓が置かれている。中央アジアのイスラム教徒の聖地の一つであり、草原地帯ではヤサヴィー廟への参詣はメッカ巡礼に勝る善行と見なされていた〔堀川「ヤサヴィー」『中央ユーラシアを知る事典』、513-514頁〕。 カザフスタンにおけるユネスコの世界遺産第1号であり、2003年に指定された。 == 歴史 == もともとこの土地にはホージャ・アフマド・ヤサヴィーの小さな廟建築が存在していた。ヤサヴィーは12世紀半ばに中央アジアのテュルク系遊牧民へのイスラーム化に尽力した人物で、カザフスタンのサイラムの出身だったが、のちにヤサ(現テュルキスタン市)移住したため、「ヤサヴィー」のニスバで呼ばれる。 14世紀末、ティムールの手によって1397年から2年がかりで現在の建築物が造営された〔。廟の建築を手がけたのは、ホージャ・フサイン・シーラーズィーとシャムス・アブドゥッラー・シーラーズィーだと考えられている〔D.ホーグ『イスラム建築』、184-185頁〕。ティムールが廟を増築した理由については、遊牧民から敬意を払われているヤサヴィーの廟を改築することで、東方のモグーリスタンに居住する遊牧民の支持を獲得する意図があったと考えられている〔。ティムールが1405年に死亡したことにより、廟建築の継続は中止された。その後の統治者は、この廟に関しての関心はそこまで大きいものではなかったために、ティムール建築の典型例が当時の姿のまま残った。 テュルキスタンがロシアに編入された後も、ロシア革命直前まで廟に多くの参詣者が訪れた。1994年にはトルコ共和国との協定が締結されてアフマド・ヤサヴィー大学が創設され、トルコ政府の援助によって3,500万USドル以上をかけた〔「地球の歩き方」編集室『中央アジア サマルカンドとシルクロードの国々(2013‐2014年版)』、140頁〕廟の修復工事と周辺の整備が実施された。19世紀当時に廟の周囲を取り囲んでいた壁が復元され、古い街並みが日干しレンガで再現された〔深見『世界のイスラーム建築』、195頁〕。2003年に廟が世界遺産に指定された後、テュルキスタンの観光産業は急速に発展し、新しいホテルや廟を模した建物が建設された〔深見『世界のイスラーム建築』、194頁〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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