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ホーズショップの戦い(ホーズショップのたたかい、〔Some 19th-century regimental histories spell it "Hawe's", although the Official Records of the American Civil War and all of the references for this article spell it "Haw's". Rhea, p. 68, refers to the owner as John Haw.〕、またはエノン教会の戦い、)は、南北戦争の4年目に入った1864年5月28日、バージニア州ハノーバー郡で、北軍ユリシーズ・グラント中将のオーバーランド方面作戦の中で、南軍ロバート・E・リー将軍の北バージニア軍と対抗した戦闘である グラントは5月23日から26日に行われたノースアンナの戦いに続く膠着状態を放棄し、再度リー軍の右翼を大きく回り込んで、パムンキー川を遮蔽にして南西に動いた。リー軍は真っ直ぐ南に動き、トトポトミー・クリークの南岸に陣地を採った。南軍はウェイド・ハンプトン少将の指揮する騎兵隊を派遣して、グラントの次の動きに関する情報を集めさせた。5月28日、ハンプトン隊がデイビッド・マクマートリー・グレッグ准将の指揮する北軍騎兵隊に遭遇した。それに続いた戦闘で騎兵が馬を降り、防御のために土盛り工作物を使ったものとなり、両軍とも勝利に繋がるものを得られなかった。グレッグはアルフレッド・T・A・トーバート准将師団の2個旅団、およびジョージ・アームストロング・カスター准将の旅団の援軍を受け、渾身の攻撃を掛けたが、その時にハンプトンは撤退の命令を出していた。 7時間続いた戦闘では決着が付かなかったが、オーバーランド方面作戦の中では2番目に重要な騎兵戦となり、この戦争の中でも犠牲の多いものとなった。両軍ともに勝利を主張した。北軍フィリップ・シェリダン少将が指揮する騎兵軍団は、ハンプトン隊を戦場から駆逐し、北軍騎兵隊の優秀さを示したと豪語した。しかし、ハンプトンは北軍騎兵隊の攻撃を7時間持ち堪え、その偵察対象に当たることを阻止し、グラント軍の配置についての貴重な情報をリー将軍に伝えることができた。 == 背景 == ノースアンナの戦い後、グラント軍とリー軍はその対面する土盛り工作物の中で膠着状態となった。グラントはこの方面作戦の中で、荒野の戦い(5月5日-7日)とスポットシルバニア・コートハウスの戦い(5月8日-21日)の後で2回やっていた様に、リー軍の右翼を回り込み、南軍の首都リッチモンドに近づいて、リー軍を会戦に引き込もうと期待していた。まず真東に動いてパムンキー川を渡った。直接南に動いていたならば、リトル川、ニューファウンド川、サウスアンナ川と3つの川を渡らねばならず、リーが操作できる小さな障害になっていたはずだった。パムンキー川の東岸では南軍から効果的に遮蔽され、さらに川沿いに新しく作られた基地であるホワイトハウス・ランディングから補給を受けることもできた〔Eicher, pp. 671, 679, 683; Rhea, p. 22; Welcher, p. 981; Furgurson, p. 43.〕。 しかしグラントは、移動を始める前に、リー軍から離れるという問題に直面することになった。両軍は接近して対峙していただけでなく、グラント軍は当初ノースアンナ川を越えて北に動く必要があったので、攻撃を受ければ大変脆弱な状況になるはずだった。グラントはその意図を隠すために一連の偽装工作を行うことにした。5月26日、ジェイムズ・H・ウィルソン准将の指揮で騎兵師団をリトル川に送って南軍前線の西端を探らせ、一方でアルフレッド・T・A・トーバート准将とデイビッド・グレッグ准将の騎兵師団の兵士を、グラントが渡河を計画するパムンキー川の地点の10マイル (16 km) 上流にあるリトルペイジ橋とテイラーの浅瀬に派遣した。リーはノースアンナの戦いのときに下痢を発症して起き上がれなくなっていたために、このときもテントの中に居り、グラントの行動に幻惑され、北軍はこの方面作戦で初めて西に動こうとしていると想定することになった〔Welcher, 982; Starr, pp. 116-17; Rhea, p. 24.〕。 北軍の歩兵隊は5月26日の日暮れ後に密かに撤退し、27日の朝までには無事にノースアンナ川の北に出ていた。アンブローズ・バーンサイド少将の指揮する第9軍団と、ウィンフィールド・スコット・ハンコック少将の指揮する第2軍団が川の渡河地点を守る位置に留まり、一方ガバヌーア・ウォーレン少将の第5軍団とホレイショ・ライト少将の第6軍団は、フィリップ・シェリダン少将の騎兵隊に引導され、南東に約34マイル (54 km) のハノーバータウンに近い渡河地点に向かって行軍を始めた〔Rhea, pp. 32-37; Welcher, p. 982.〕。 リーは敵軍が離れてしまったことに気付くと、その軍を速やかに反応させて動かした。リチャード・H・アンダーソン少将とリチャード・イーウェル中将、A・P・ヒル中将指揮下の3個軍団を、リッチモンド・フレデリックスバーグ・アンド・ポトマック鉄道に沿って南下させ、その後は陸路をバージニア・セントラル鉄道のアトリー駅に向かわせた。そこはリッチモンド市の北僅か9マイル (14 km) の地点だった。そこではトトポトミー・クリークと呼ばれる水流の背後に都合よく陣取ることができ、グラント軍が鉄道あるいはリッチモンド市に向かって動いても守ることができた。パムンキー川の南岸下流にノースカロライナ騎兵隊の小さな旅団を派遣して、可能な限り北軍の前進を偵察し、嫌がらせを掛けさせもしていた。この行軍の間、リーはその病気のために荷車で運ばれていた。イーウェルも同様な症状で寝ており、救急車で運ばれていた。その状態は重篤であり、一時的にジュバル・アーリー少将に指揮権を渡していた〔Salmon, p. 288; Furgurson, p. 47; Welcher, p. 982; Rhea, pp. 44-45, 60.〕。 5月27日、北軍騎兵隊がパムンキー川の南岸、ダブニーの浅瀬に橋頭堡を構築した。ジョージ・カスター准将のミシガン騎兵旅団が、浅瀬を守っていた南軍騎馬哨戒兵を蹴散らし、工兵1個連隊が舟橋を構築した。カスターの部隊はセイラム教会の北で、南軍フィッツヒュー・リー少将の騎兵隊、ブラッドリー・T・ジョンソン大佐のメリーランド第1連隊、ジョン・A・ベイカー大佐のノースカロライナ旅団と活発な戦闘を行った。南軍は多勢な敵の圧力に屈して後退した。このときトーバート師団の残りが川を渡り、その後にグレッグの騎兵師団、歩兵の師団と続いた〔Rhea, pp. 41-44, 50-57; Welcher, p. 982; Ferguson, pp. 46-47.〕 。 リーは、グラントに対抗する最良の防御陣地がトトポトミー・クリーク南岸にある低い尾根だと分かったが、グラントの具体的作戦について確信が持てなかった。グラントがハノーバータウンで力づくでパムンキー川を渡る意図でなければ、北軍が南軍の側面を衝き、直接リッチモンド市に向かうことができるはずだった。リーは、ウェイド・ハンプトン少将の騎兵隊に威力偵察を行って北軍騎兵隊の遮蔽を破り、北軍歩兵隊を見つけるよう命令した〔Salmon, p. 288; Furgurson, p. 47; Grimsley, pp. 149-51; Rhea, p. 60.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホーズショップの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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