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ボストン暴動(ボストンぼうどう、1689 Boston revolt)は、1689年4月18日に、ニューイングランド自治領の総督である、サー・エドマンド・アンドロスの統治に反抗した民衆が起こした暴動である。ボストンの民兵と市民とで構成された、整然とした「暴徒たち」が植民地の官僚を逮捕した。ピューリタンから自治領の官僚たちの仲間と思われていた聖公会の信者もまた、反乱軍から拘留された。いずれの側からもこの暴動で犠牲者が出た。かつてのマサチューセッツ湾植民地の指導者たちは、その後行政府の支配権を握り、その他の植民地では、の設置によって追放された行政官たちが、再び権力の座に返り咲いた。 アンドロスは1686年にニューイングランド自治領地の総督を委任され、拘束性の強い航海条例を押し付けたため住民たちの反発を買い、現行であった土地所有権の効力を否定し、タウンミーティング(町民議会)に制約を与え、なかんずく民兵隊の常駐の将校に人気のない人物を就任させた。さらに、聖公会を強力に推したことでボストンのピューリタンたちを激怒させた。非国教会信者の多いニューイングランドでは、聖公会は嫌われていたのである。 ==歴史的背景== 1680年代初頭、イングランド王チャールズ2世は、ニューイングランドの複数の植民地の再編成策を講じ始めた〔Lovejoy, pp. 148–156〕。1684年に、植民地内改革に関して王の要求したことの実践を、ピューリタンの統治者が拒否し、その後マサチューセッツ湾植民地の勅許状は無効化されていた。その時チャールズは、小規模な植民地の行政を合理化して、本国の支配の元により密接にしようとしていた〔Lovejoy, pp. 155–157, 169–170〕。チャールズは1685年に亡くなり、後継者であるカトリック教徒のジェームズ2世がこの仕事を継続させ、ついにニューイングランド自治領が創設された〔Lovejoy, p. 170〕。 1686年、ニューヨーク植民地の前総督サー・エドマンド・アンドロスはニューイングランド自治領の総督を委任された。この自治領はマサチューセッツ湾、コネチカット、ニューハンプシャー、そしてロードアイランドの各植民地により構成されていた〔Barnes, pp. 46–48〕。1688年には、ニューヨーク、イーストジャージー、そしてウエストジャージーにまでその管轄が及んだ〔Barnes, p. 223〕。 ニューイングランドにおけるアンドロスの統治ははなはだしく不評であった。アンドロスは各植民地の代表を無視して、マサチューセッツにおける土地所有権の効力を否定した、この所有権はかつての勅許状に定められたものだった。他にも町民議会を規制し、ピューリタンが多くを占める地域に積極的に聖公会を推し進めた〔Lovejoy, pp. 180, 192–193, 197〕。また、ニューイングランドで確立された交易習慣を脅かす、好ましからざる法である航海条例を強制した〔Barnes, pp. 169–170〕。ボストンにはイギリス本国の部隊が駐留し、その士官には聖公会か、やはり不遇を強いられていたカトリックの信者もいた。アンドロスの政府の支持者と考えられていた一部の士官は、自らの指揮する民兵隊を酷使した〔Webb, p. 184〕。 その間イングランドでは、ジェームズ2世がますます人気を落としていた。ジェームズは自治領の問題とは別に、刑法緩和に関して、自らの支持政党であるトーリーと距離を置いていた〔Miller, pp. 162–164〕。そして1687年には、を発表して、信教の自由を限定的に打ち立てた。これは聖公会を頂点とする社会階層への対抗手段であった。また常備軍の力を強大にしたが、これは議会派からは議会への脅威とみなされた。さらに、カトリック教徒を軍の要職につけたのである〔Lovejoy, p. 221〕〔Webb, pp. 101–107〕 。ジェームズは、多くの官庁で実施を求められていた、聖公会信者であることを確認する審査律を無効にするため、自分の支持者を議員にすることさえ画策した〔Miller, p. 178〕。1688年6月に、次の王位継承予定者である息子のジェームズが誕生したのに伴い〔Miller, p. 186〕 、ホイッグ党とトーリー党の一部議員が政治的信条の違いをとりあえず棚上げし、ジェームズを退位させて、娘婿であるウィレムに即位させることを共謀した〔Lustig, p. 185〕。このオランダの王族は、ジェームズに政策を再検討するように勧めたが成功せず〔Miller, p. 176〕、このイングランド王室への侵入に同意し、その後1688年11月から12月にかけて名誉革命が起き、ウィレム(ウィリアム)と王妃メアリーがイングランドの共同統治者となった〔Lovejoy, pp. 226–228〕。 とに率いられたマサチューセッツの宗教指導者たちは、アンドロスの統治に反対し、ロンドンの王宮への影響を狙って、反聖公会の宗教組織を結成した。ジェームズが信仰自由の宣言を発表した後、インクリースは国王に、この決意に敬意を表した感謝の手紙を送り、他のマサチューセッツの非聖公会の牧師にも、国王から好感をもたれ、かつ影響を与えるために謝意を表すように示唆した〔Hall, pp. 207–210〕。10人の牧師がこれに同意し、インクリースをイングランドに送って、アンドロスの悪政をの個々の事例を主張させることにした〔Hall, p. 210〕。自治領の事務官であるが、起訴に踏み切ることも含めて繰り返し引き止めようとしたにもかかわらず、1688年4月、インクリースはこっそりイングランド行きの船に乗り込んだ〔Hall, pp. 210–211〕 。インクリースと他のマサチューセッツ代表はジェームズに歓迎され、ジェームズはその年に10月に植民地の問題を処理すると約束した。しかし名誉革命により、植民地を改善するための計画は頓挫した〔Hall, p. 217〕。 そこでマサチューセッツの代表は、そしてローズ・オブ・トレード(Lords of Trade、の前任組織で植民地の問題を監督していた)にマサチューセッツ勅許状の復活を嘆願した。さらにインクリース・マサーは、ローズ・オブ・トレードに、名誉革命をアンドロスに通達するのを遅らせるように約束を取り付けた〔Barnes, pp. 234–235〕。マサーは既に、前のマサチューセッツ総督であるサイモン・ブラッドストリートに、マサチューセッツ勅許状の無効化は違法であり、行政長官は「変化に向けて住民に覚悟をさせよ」という、名誉革命前に準備された報告が盛り込まれた手紙を送っていた〔Barnes, p. 238〕。正式な知らせが届く前に、ボストンでは何人かが名誉革命についての噂を耳にしていた。この後の暴動で目立った働きをすることになる、ボストン商人は、3月末の日付の手紙でこの革命について触れている〔Steele, p. 77〕。この手紙は、マサチューセッツの反アンドロス派の古参の政治家や、宗教指導者たちの会議を推し進めることになった〔Steele, p. 78〕。 アンドロスが、最初に自分の支配に対する暴動が差し迫っているとの警告を受け取ったのは、フランスとインディアンの連合軍の攻撃からメインのペマキッド砦を守るため、攻略のために遠征軍を率いている途中のことであった。1688年及び1689年の1月アンドロスはジェームズからの手紙を受け取った、それにはオランダ軍が戦力を増強している旨が記されていた〔Lustig, p. 182〕 。1月10日、彼は、プロテスタント(非国教会派)の扇動に対抗するため、自治領に対する蜂起を禁じる声明を出した〔Webb, p. 182〕。メインでアンドロスが率いていた軍勢は、イギリスの正規軍と、マサチューセッツそしてメインの民兵の混合軍だった。民兵の中隊の指揮官は正規の将校であったが、兵たちにかなり厳しい規律を課し、指揮官と兵たちの間かなりの溝が生じていた〔Webb, p. 183〕 。アンドロスは、ボストンでのタウンミーティングに危機感を募らせており、さらに、名誉革命の非公式な報告を受け取ったため、3月半ばにメインからボストンに戻った〔〔。ボストンは、アンドロスがいわゆる「カトリック陰謀事件」の一環として、兵たちをメインに連れて行ったという出鱈目な噂が飛び交っており、民兵隊内部では反乱が起こり、マサチューセッツの民兵は任務を捨てて各自の家へ戻り始めた〔Webb, p. 185〕。4月始めに、名誉革命を知らせる宣言がボストンに到着すると、アンドロスはその使者を逮捕した。しかしこの知らせは方々に広がり、ボストンの人々に勇気を与えた〔Lustig, p. 190〕 。アンドロスはペマキッドにいる指揮官に、4月16日に手紙を書いた。それにはこうあった。「住民がかつての勅許状の復活を大いに期待して、あちこちでやかましく騒いでいる」ちょうどこれは、戻ってきた脱走兵たちをアンドロスが逮捕して、メインへ船で戻していたころだった〔Webb, pp. 186–187〕。自分たちの地域の民兵から逮捕されるという恐怖感が、ボストンの住民と自治領政府の間の緊張を高めた〔Webb, p. 187〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボストン暴動」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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