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ボスニア王国 : ミニ英和和英辞書
ボスニア王国[ぼすにあおうこく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ボスニア : [ぼすにあ]
 【名詞】 1. Bosnia 2. (n) Bosnia
: [おう]
  1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi) 
王国 : [おうこく]
 【名詞】 1. kingdom 2. monarchy 
: [くに]
 【名詞】 1. country 

ボスニア王国 : ウィキペディア日本語版
ボスニア王国[ぼすにあおうこく]

ボスニア王国()は、中世のボスニアに存在していた国家である。
== 歴史 ==

=== 成立の経緯 ===

1180年ごろからボスニアはバン(首長)の支配下の元に独立し、時には他国の君主に臣従を誓っていた〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、24頁〕。1318年にボスニアのバンとなったの時代にボスニアは勢力を拡大し、同盟者であるハンガリー王国の保護下で北西に支配領域を広げ、1326年セルビアの支配下に置かれていたフム(、現在のヘルツェゴヴィナ)を併合した〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、28頁〕。
1353年にスチェパン2世が没した後、彼の甥であるが地位を継承するが、即位直後に多くの領土を喪失する〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、36-37頁〕。1360年代にトヴルトコ1世は支配権を回復し、1370年代にはフム全域とセルビアの支配下に置かれていたサンジャク地方の大部分を併合した。1371年にセルビアのネマニッチ朝が断絶した後、セルビア王ステファン・ドラグティンのひ孫にあたるトヴルトコ1世はセルビア王位を請求した〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38頁〕。1377年にトヴルトコ1世は「セルビアとボスニアの王」として戴冠し、トヴルトコ1世以降のボスニアの君主は王を称する〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、38-39頁〕。
トヴルトコ1世の時代、ボスニアは没落したセルビアに代わるバルカン半島最大の国家となる〔柴宜弘『図説バルカンの歴史』増補改訂新版(ふくろうの本, 河出書房新社, 2011年10月)、31頁〕。即位後、トヴルトコ1世はハンガリーの内乱に干渉し、クロアチアダルマチアに勢力を広げる。セルビア侯ラザル・フレベリャノヴィチからは、援助の見返りとしてからコトルに至るアドリア海沿岸部の地域を割譲された〔クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、73頁〕。1378年にトヴルトコ1世はブルガリア帝国の皇女と結婚しており、この婚姻よりトヴルトコ1世にはアドリア海から黒海に至る大国を建設する野心があったと推測する意見もある〔。1390年にトヴルトコ1世は自身が用いる称号に「クロアチアとダルマチアの王」を加えた〔ドーニャ、ファイン『ボスニア・ヘルツェゴヴィナ史』、39頁〕。しかし、アドリア海沿岸部の都市のうち、ヴェネツィアの支配下にあったザダル(ザラ)、ハンガリー王国の保護下にあったドゥブロヴニク(ラグーザ)はボスニアの支配から離れていた〔クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、58頁〕。
トヴルトコ1世はセルビアと連合してオスマン帝国のバルカン半島への進出の阻止を試みたが、1389年コソヴォの戦いでオスマン軍に敗北を喫する〔。トヴルトコ1世の没後、1398年にボスニアに初めてオスマン軍が侵入する〔クリソルド『ユーゴスラヴィア史』増補版、74頁〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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