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ボズ・バレル : ミニ英和和英辞書
ボズ・バレル
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ボズ・バレル : ウィキペディア日本語版
ボズ・バレル

ボズ・バレルBoz Burrell, 1946年8月1日 - 2006年9月21日)は、イギリス出身のミュージシャン。本名は Raymond Burrell。キング・クリムゾンなどでは単に Boz の名前で活動。
== 概略 ==
ボズ・バレルは1946年イギリスリンカンシャーホルビーチにて生まれる。1963年にローカルバンド、ロンバード・アンド・ティー・タイム・フォーにアコースティックギターで参加し、ジャズブルースソウルなど黒人音楽をプレイしていた。1965年春ロンドンに仲間4人で上京、「The Boz People」というバンド名に変えマーキー・クラブや各地の米軍基地等で活動、6月にはイアン・マクレガンを加え5人編成となった(10月にバンドは楽器を盗まれて解散)。ある時ロジャー・ダルトリーに代わるボーカリストとしてザ・フーに採用されそうになったが、結局お流れになったという。60年代後半ボズは多くのローカルバンドを渡り歩いている。60年代後半に数枚のシングルをBOZ名義にて発表しているが、その内のI Shall Be Released/Down In The Flood(1968)のシングル両面は、67年に急逝したジョー・ミークの配下だったデレク・ローレンスが制作を担当し、当時プロデュースしていた初期ディープ・パープルの面々が演奏している。
1970年10月に当時属していたバンド、ミラーズがロンドン・マーキークラブでのギグを最後に解散した後、キース・ティペットによる60人編成のビッグバンドプロジェクト、センチピードへ参加。この際ロバート・フリップへ紹介されプログレッシブ・ロックバンドキング・クリムゾンのオーディションを受け合格。メル・コリンズはこの時を振り返り「ボズは60年代ボズ・ピープルやサイドワインダーズでミージシャン仲間によく知られてた。オーディションに来た時点で群を抜いていたので即座に決りだと思った。」と述べている。〔Marquee別冊『キング・クリムゾン』メル・コリンズ インタビュー〕。この時キング・クリムゾンはベーシストのオーディションで適任者がなかなか見つからなかったが、たまたまベースで遊んでいたボズをみたロバート・フリップベースを訓練され、結局ヴォーカリスト兼ベーシストとして参加することになった。ボズがベース兼業になってからもフリップは、旧友のジョン・ウェットンにベーシストとして加入を持ちかけたが、「フリップがバンドで孤立してる為に加入させられるなら今はその時期ではない」とこの時はウェットンに断られている〔『UKプログレッシヴ・ロックの70年代』ジョン・ウェットンインタビュー(マーキー・インコーポレイティド、1996年6月)〕。ベーシストを探し続けるフリップに対し、コリンズとウォーレスはボズのベース技術が向上している事を理由にこのままの編成で行くよう要望した〔Marquee別冊『キング・クリムゾン』メル・コリンズ インタビュー〕。
しかし、スタジオ・アルバム『アイランズ』後に行われた北米ツアーが終了した春、ロバート・フリップとの確執から他のメンバーと共に脱退する。(ちなみにこの後ボズはベーシストとしての活動に比重が移っていき、バッド・カンパニー参加後からはコーラス以外ほとんど歌わなくなった。)クリムゾン脱退後はアレクシス・コーナーのバンド「スネイプ」に参加。スネイプはスタジオ・アルバムと二枚組ライヴ・アルバム、そしてアレクシス・コーナー名義で1枚作品を残した。
その後しばらくはセッション・ミュージシャンとして様々なセッションに参加していたが、1974年に元フリーポール・ロジャースとサイモン・カーク、元モット・ザ・フープルのミック・ラルフスと共にバッド・カンパニーを結成。ボズは最後にオーディションでベーシストとして参加した。バッド・カンパニーでは徐々に曲作りにも参加を始めたが、オリジナルメンバーによるバッド・カンパニー解散後はスタジオ経営のかたわらローカル・バンドでプレイする程度であった。1986年には、ボーカルにブライアン・ハウを迎えた再結成バッド・カンパニーに参加するも、アルバム1枚に参加しただけで、すぐに脱退。目立った音楽活動からは一線を引いた。
そして1998年のオリジナルメンバーによるバッド・カンパニー再結成に参加し、1999年には新曲4曲を含んだベスト・アルバムバッド・カンパニー・アンソロジー』発表に伴うツアーに参加し、久々に表舞台に姿を現した。しかし、2002年のバッド・カンパニーのツアーには大規模なツアーに消極的なミック・ラルフスと共に、本格的なジャズに没頭したいというボズ自身の理由で参加しなかった。晩年に、1960年代からの旧友タム・ホワイトとのエジンバラ大学でのコンサート映像が残されている。
2006年9月21日スペインの自宅にて心臓発作にて死去した。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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