|
レユニオン(Réunion)は、フランス共和国の海外県ならびに海外地域圏(レジオン)である。マダガスカル島東方のインド洋上に位置する。面積2512平方キロメートル、人口約84万6000人(2010年推定)。コーヒーの原種の一つブルボン種の原産地。県都はサン=ドゥニ。 == 歴史 == * 1507年 ポルトガル人がこの無人島を発見。 * 1640年 フランス人が上陸してフランス領と宣言。 * 1642年 国王ルイ13世によってブルボン島(Île Bourbon)と命名されたが、ブルボン王政を打倒したフランス革命によってレユニオン島(La Réunion)と改名された。 * 1665年 フランス東インド会社はインドへの中継港として重視し、植民を開始。最初はコーヒー栽培、そしてサトウキビ栽培による製糖が重要産業となる。 * 1806年 皇帝ナポレオンに媚を売った提督によってボナパルト島(Île Bonaparte)と改称されるが、ナポレオン戦争終了後のイギリス占領時(1814年)にブルボン島に戻される。しかし1848年に2月革命で7月王政が倒れるとまたレユニオン島に改称されて今日に至る。 * 1869年 スエズ運河が開通すると、インド方面への中継港としての役割は減少。 * 1946年 フランスの海外県となる。 * 1952年 3月15日から3月16日にかけて、世界最多24時間降水量の1870ミリメートルを記録。 * 2002年 ユーロ流通。 * 2003年 海外レジオン設置に伴い、「レユニオン海外県ならびに海外レジオン」になる。 ; レユニオン島の人の移動と経済関連年表 遅くとも12世紀にはアラブ商人によって島の存在が知られていた。アジアやアフリカの船乗りも立ち寄ったと推測される。 * 1502年 ポルトラーノ海図にDina Morgabin 或いはDiva Morgabimの名で登場。パーリ語dipa「島」とアラビア語「西の」の混成語。 * 1507年 ポルトガルのトリスタン・ダ・クーニャが接岸し、Santa-Appoloniaと命名。これは発見された2月9日が聖アポローニアの記念日であったため。 * 1513年 ポルトガルのインド植民地総督ペドロ・デ・マスカレニャスが公式に発見。彼の名はマスカレン(仏語ではマスカレーニュ)諸島(レユニオン、モーリシャス、ロドリゲス)に残っている。その後、オランダの提督、英国の海賊、ポルトガルのイエズス会宣教師などが相次いで接岸。 * 1638年 インドに向かっていたSaint-Alexis号がルイ13世の名において占有を宣言。 * 1640年 Saint-Alexis号艦長が「公式」に領有を宣言(Bourbonと命名)。 * 1646年 マダガスカルの反乱分子12人が流刑。 * 1654年 マダガスカルの反乱分子(フランス人8人、マダガスカル人6人)が流刑。 * 1663年 フランス人2人が10人のマダガスカル人(男7人、女3人)と2年滞在。 * 1665年 フランス人20人入植。 * 1668年 サトウキビがマダガスカルよりもたらされる。 * 1671年 人口76人:白人36人、マダガスカル人37人、混血の子供3人。 * 1674年 人口130人:奴隷75人。 * 1686年 最初の人口調査。総人口約300人:フランス人、ポルトガル系インド人、アフリカ、マダガスカル、オランダ10家族がフランス人夫婦より、12家族がフランス男性とインドーポルトガル女性、14家族がフランス男性とマダガスカル女性から。 * 1689年 奴隷人口102人、自由民212人。 * 1700年 人口700人、うち320人が黒人。 * 1709年 奴隷人口384人、自由民492人。 * 1711年 自生のコーヒーが発見される。 * 1714年 奴隷人口534人、自由民623人。 * 1718年 イエメンのモカからコーヒーがもたらされる。これがブルボン種の元となる。 * 1735年 奴隷人口6573人、自由民1716人。 * 1749年 コーヒー苗が虫害によって荒らされ始める。 * 1750年 奴隷人口1万1893人、自由民2834人。 * 1763年 奴隷人口1万5419人、自由民4267人。 * 1771年 ブルボン種から変異したコーヒー、ブルボン・ポワンテュの名が初めて記録に登場。以降、ヨーロッパで人気を博する。 * 1779年 奴隷人口3万0209人(うち白人6464人)、自由民6929人。 * 1788年 人口約4万5000人、奴隷3万3377人(うち白人8812人)、解放奴隷1029人。 * 1789年 奴隷人口4万2588人、自由民9211人。 * 1791年 ハイチ革命(サトウキビ経済の崩壊)。 * 1793年 国民公会により島名レユニオン。 * 1794年 国民公会奴隷制廃止宣言。 * 1802年 ナポレオンにより奴隷制復活。 * 1804年 奴隷人口5万0350人。 * 1806年 翌年にかけて大型サイクロン来襲、コーヒー畑壊滅。島名ボナパルト。 * 1810年 英国の統治下に入る。白人1万2725人、解放奴隷2840人、奴隷5万2141人。 * 1814年 島名ブルボン。 * 1815年 フランスに返還。最初の製糖工場(小屋)。 * 1817年 最初の蒸気粉砕機導入。奴隷売買禁止令。非合法売買で1831年までに奴隷約45000人輸入。 * 1820年 粉砕機数91。1820年-1825年の砂糖生産量は4500トン以下。人口7万1703人:奴隷5万1213人、解放奴隷4710人、白人1万5780人。 * 1821年 粉砕機数135。 * 1823年 粉砕器数168。サトウキビ耕作面積約4万8000ヘクタール。 * 1826年 人口8万7100人:奴隷6万0698人。 * 1829年 インド人年季契約労働者が続く3年間で約3000人移入。 * 1830年 蒸気粉砕機数84。白人と白人系混血約3万0000人、奴隷約7万0000人。 * 1832年 続く3年間で奴隷約4万5000人輸入。 * 1835年 奴隷人口7万0406人。 * 1840年 奴隷人口6万約6100人。製糖工場数約140。 * 1848年 奴隷人口6万2151人、12月奴隷制廃止。島名レユニオン。 * 1849年 年季契約労働者数1万2032人(インド1万1309人、中国644人、アフリカ379人)。 * 1850年 続く10年間でインド人労働者約6万0000人。 * 1852年 外国人年季契約労働者1万6585人、解放奴隷1万5483人。 * 1858年 製糖工場数127。 * 1859年 年季契約労働者数6万4403人(アフリカとマダガスカル合わせて2万6784人)。アフリカ人移住禁止令。 * 1860年 砂糖生産量約7万3000トン。サトウキビ耕作面積約62000ヘクタール。製糖工場数121。サン・ルー市、コーヒー栽培を放棄。 * 1865年 砂糖生産量約4万8000トンに激減。インド・アフリカ移民約7万4500人。約4万4000人の解放奴隷が契約労働に移行せず。 * 1869年 スエズ運河開通。 * 1870年 人口約21万人。うち中国系約1180人。 * 1881年 人口約17万2000人。砂糖生産量約2000トン。 * 1882年 粉砕機数168。インド人移住禁止令。年季契約労働者数4万6426人。 * 1885年 最後のインド人年季契約労働者移住(男22人、女12人)。人口約16万3000人。 * 1887年 モザンビークから約2000人以上の年季契約労働者移住。 * 1889年 島で生まれた移民の子へのフランス国籍付与。 * 1901年 中国人年季契約労働者受812人移住。人口17万3315人。 * 1904年 製糖工場数36。 * 1911年 人口17万3293人:インド人ムスリム584人、中国人844人(うち女33人)。 * 1914年 この年から1918年までの砂糖生産量約37000トン。 * 1916年 仏領インドシナ保護国阮朝大南(ベトナム)の第10代成泰帝(在位1889–1907年)と第11代維新帝(在位1907–16年)父子が流刑(〜1945年)。 * 1927年 移民受け入れ再開。マダガスカルより約3000人。 * 1931年 人口19万7933人、うちフランス国籍19万2566人。 * 1940年 砂糖生産量約11万0000トン。 * 1942年 コーヒーの輸出がこの年を最後に途絶える。 * 1946年 フランス海外県化。 * 1956年 製糖工場数13。 * 1988年 製糖工場数4。 * 2001年 製糖工場数2。 * 2007年 コーヒーの輸出再開。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「レユニオン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|