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ボニファティウス8世(Bonifatius VIII, 1235年頃 - 1303年10月11日)は、中世のローマ教皇(在位:1294年 - 1303年)。フランス王フィリップ4世およびコロンナ家と争い、最晩年に起こったアナーニ事件の直後に「憤死」した。学術・文化の保護者としても知られる。 == 生涯 == === 教皇登位まで === ローマ市の南東方向にあるアナーニ(ラツィオ州フロジノーネ県)の名門(貴族階級)出身で、本名はベネデット・カエターニ(Benedetto Caetani)である〔マックスウェル・スチュアート(1999)pp.159-162〕〔鶴岡(2012)pp.54-64〕。歴代教皇の別荘があるスポレート(ウンブリア州ペルージャ県)などで教会法などを学び、パリやローマで聖堂参事会の会員となり、1276年にローマ教皇庁入りを果たした。枢機卿に昇進したのち、教皇特使としてイタリア半島各地やフランスなどを往復し、各界に多くの知遇を得た〔。 第192代ローマ教皇のケレスティヌス5世は有徳の人であったが、「教皇の器にあらず」と在位数ヶ月にして自ら退位を希望し、教会法に詳しい教皇官房のカエターニ枢機卿に相談した〔。ケレスティヌス5世は、夜な夜な聞こえる「ただちに教皇職を辞し、隠者の生活に戻れ」という声に悩まされた末にカエターニ枢機卿に相談したのであるが、実は、部下に教皇の寝室まで伝声管を引かせて毎夜ささやき、教皇を不眠症と神経衰弱に追い込んだ張本人はカエターニ自身であったといわれている〔。カエターニ枢機卿は教会法に基づいた辞任の方法を教皇に助言し、ここに存命のまま教皇が退任するという異例の事態が発生した〔。ケレスティヌス退任後、ただちに再びコンクラーヴェ(教皇選挙会議)がひらかれ、グレゴリウス10世の定めた手続きにしたがって後継者が選ばれることとなって、その結果カエターニ枢機卿がボニファティウス8世としてローマ教皇に選出された〔。 前任のケレスティウス5世は、その就任時にナポリ王国のカルロ2世に身をゆだね、カルロ王が望む人物を役職につけ、ローマではなくナポリに住むことにまで同意していた〔。しかし、ボニファティウス8世が就任した当時のローマは繁栄期を迎えていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボニファティウス8世 (ローマ教皇)」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pope Boniface VIII 」があります。 スポンサード リンク
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