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ボニファーチオ・ディ・カノッサ(Bonifacio di Canossa, 985年 - 1052年5月6日)は、カノッサ伯(在位:1012年頃 - 1052年)、トスカーナ辺境伯(4世)(在位:1027年 - 1052年)。カノッサ家(Canossiana)出身で、神聖ローマ帝国期の有力な領主の一人であり、レッジョ、モデナ、マントヴァ、フェラーラを支配した。 ボニファーチオは、ランゴバルド族の家系のアダルベルト・アットー (Adalberto Atto) またはアットーネ (Attone) の孫であり、アダルベルトの子テダルド・ディ・カノッサとその妻ウィラ(ボゾン家トスカーナ辺境伯の出身ともされる)との間の次男である。兄テダルトはアレッツォ司教となり、弟コッラードはロンバルディアの伯らとともにボニファーチオと対立したのち1030年死去した。 ボニファーチオは常に神聖ローマ皇帝を支持し、1014年、ロンバルディア領主による皇帝ハインリヒ2世への反乱を鎮圧した。1026年には、皇帝コンラート2世がイタリア王となるためアキテーヌ公と争った際に、ボニファーチオはコンラートに加勢した。これにより翌1027年にボニファーチオはトスカーナ辺境伯位を与えられた。ボニファーチオはまた1034年6月のブルグント王国継承に関する皇帝コンラート2世とブロワ伯ウード2世との戦いにおいても皇帝側で参戦している。一方で、強大化したボニファーチオの勢力に対し、皇帝は圧力を加えた〔山辺、p.87〕。 1056年5月6日、マントヴァ近くのサン・マルティーノ・アッラルジーネの狩りの途中で暗殺された。暗殺者はオパルマのスカルペッタ・デ・カネヴァリと言われており、暗殺の黒幕は皇帝ハインリヒ3世ともされている〔山辺、p.91〕。マントヴァに埋葬された。 == 子女 == 最初、ベルガモ伯ジザルベルト2世の娘リキルデ (Richilde) と結婚し、娘を一人もうけたが夭逝した。リキルデは1036年に死去した。 アルデンヌ家の上ロートリンゲン公フリードリヒ2世の娘ベアトリーチェ・ディ・ロタリンジャ (Beatrice di Lotaringia)と再婚し、3人の子供を持った。 *ベアトリーチェ(? - 1053年) - 夭逝 *フェデリーコ(? - 1055年) - トスカーナ辺境伯(在位:1052年 - 1055年)、夭逝 *マティルデ(1146年? - 1115年) - トスカーナ女伯(在位:1055年 - 1115年) ベアトリーチェはボニファーチオの死後の1054年にロートリンゲン公ゴットフリート3世と結婚した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボニファーチオ・ディ・カノッサ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Boniface III, Margrave of Tuscany 」があります。 スポンサード リンク
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