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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ボニャーク(、生没年不詳)は、11世紀末から12世紀中頃のポロヴェツ族のハンである。 ==生涯== 1091年、ボニャークとトゥゴルカンはルーシの公たちと共に、ペチェネグ族に対する援軍としてビザンツへ向かい、レヴニオンの戦い(ru)でペチェネグ軍を破った。1096年にキエフを攻撃し、キエフ郊外の修道院や、ベレストヴォの離宮を焼失させた〔國本哲男『ロシア原初年代記』251頁〕。1097年にテレボヴリ公ヴァシリコが盲目にさせられた後、ルーシの諸公の内紛への介入を決めた。なお『原初年代記』には、「ボニャークが狼のように吠えると、多くの狼がそれに応えた。これによって、ボニャークは勝利を予測した」という主旨の記述がある〔國本哲男『ロシア原初年代記』292頁〕。実際、1099年のヴャグルの戦い(ru)では、ボニャークの策略によって、敵対者であるハンガリー軍は罠へと誘い込まれ、壊滅的な敗北を喫している〔〕。 1105年冬、ザルブを攻撃し、捕虜と共にステップへ帰還した。1107年にはシャルカンと共に、スヴャトポルク、ウラジーミル・モノマフ、オレグ(ru)の率いるルーシ軍と戦った〔國本哲男『ロシア原初年代記』304-305頁〕。しかしこのスーラ川の戦い(ru)において、ポロヴェツ軍は敗北し、ボニャークの兄弟のタズが死亡した。シャルカンも捕虜となるところを辛うじて逃れた。 1113年、ポロヴェツのハン・アエパと共にヴィリより攻め寄せたが、モノマフとオレグがロメン(ru)より迎撃に出たため、ポロヴェツ軍は後退した。ボニャークに関する最後の言及は、1167年に、ノヴゴロド・セヴェルスキー公オレグ(上記のオレグとは別人)によって打ち破られた、というものである〔〕。 研究者は、ボニャークと、ドニエプル川左岸の支流のヴォヴチャ川(ru)付近を遊牧していた、ポロヴェツ連合体のブルチェヴィチとを関連づけている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボニャーク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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