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ボビー・レオン・スケールズ(Bobby Leon Scales , 1977年10月4日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州出身の元プロ野球選手(内野手、外野手)。 主な守備位置は二塁手であるが、外野手や三塁手を務めることもできる。 == 経歴 == ミシガン大学出身。6月11日、メジャーリーグのドラフト会議においてサンディエゴ・パドレスから14位(全体の442番目)で指名された。ミシガン大学在学中は、ウエストコースト・リーグ(夏季大学野球リーグ)のコーバリス・ナイツでプレーした。 にAAA級ポートランド・ビーバーズに昇格。以後、にフィラデルフィア・フィリーズ、にボストン・レッドソックス、にシカゴ・カブスの各傘下マイナーに所属した。 5月4日にカルロス・ザンブラーノが15日間の故障者リスト入りしたことでメジャーに招集され、翌5日のサンフランシスコ・ジャイアンツ戦で31歳にしてデビューした(七番・二塁手として先発出場)。メジャー初打席時の相手投手は、前年のナショナル・リーグサイ・ヤング賞を受賞したティム・リンスカムだった。メジャー初得点は、同じ試合で5回裏にショーン・マーシャルの適時打の際に記録された。5月8日にはメジャー初三塁打をデイブ・ブッシュから、12日にはメジャー初本塁打をエドウィン・モレノ(パドレス)から記録した。14日のパドレス戦では2本の二塁打で4打点を稼いでいる。5月27日に一旦AAA級アイオワに戻されるが、翌日には再びメジャーに復帰した。 6月27日、北海道日本ハムファイターズと契約した。背番号は2。日本ハムは正二塁手の田中賢介が左足距骨を骨折し、同年シーズン中の戦線復帰が絶望視されていたため、二塁を守れる選手の緊急補強の必要に迫られていた〔新外国人ボビー・スケールズ選手と契約合意 北海道日本ハムファイターズ〕〔ハム新助っ人獲得へ!万能型野手は高校の先生! スポニチ Sponichi Annex、2011年6月28日〕。当初は3割を超える安定した成績を残していたが、9月には月間打率.193、OPS.541と調子を落とし、守備にも難が見られたことから契約は更新されず、12月1日に退団が決まった。 1月27日にシカゴ・カブスとマイナー契約を結んだ。その後、メッツ傘下3Aバイソンズへ移籍。 同年5月18日、打撃不振に悩むチーム事情のテコ入れ〔打撃不振のオリ 昨季日本ハムのスケールズ獲り検討 〕、また不動のセンター坂口智隆の長期離脱により外野が手薄となったこともありオリックス・バファローズと入団合意に達し〔スケールズと入団合意 25日にも1軍合流…オリックス スポーツ報知〕、20日に入団を発表した〔オリが前日ハムのスケールズ獲得を発表 スポーツナビ〕。背番号は4。日本ハム時代は内野として起用され、オリックスでも内野手登録ではあったが、実際は専ら外野手として起用された。5月25日の対広島戦で1番・レフトで初出場すると、以降は主に1番または3番で起用される。序盤は粘って四球で出塁する等の好成績を残していたが、徐々に調子を落としていった。最終的に成績は出塁率.373と高出塁率を誇り選球眼は健在であったが、6月26日の対ソフトバンク戦では1試合5三振を記録する等途中入団ながら103三振をマークし、得点圏打率は.232と好機での凡退が目立ち、打率.262、5本塁打23打点と物足りない成績に終わった。また、外野守備も打球判断の悪さ等の難もあり、9月26日の試合終了後に来季構想外となり、退団することが発表された。10月26日、自由契約公示された。 その後は現役引退し、アナハイム・エンゼルスのファームディレクターとして再出発する模様〔【オリックス】ボビー・スケールズ内野手 ― スポニチ Sponichi Annex 野球 惜別球人 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボビー・スケールズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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