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ロバート・ブラウン・ボビー・トムソン(Robert Brown "Bobby" Thomson, 1923年10月25日 - 2010年8月16日)はスコットランド・グラスゴー出身の元プロ野球選手である。右投右打。 == 経歴 == 1923年10月25日スコットランド、グラスゴーで6人兄弟の末っ子として誕生した。父親はボビーの誕生後家族に先んじてニューヨークで家具職人として働いており、トムソンが2歳の時家族をニューヨークのスタテンアイランドへ呼び寄せた。 に高校卒業後、ニューヨーク・ジャイアンツと契約。Dクラス・ブリストル・ツインズでプレーした。しかし同年12月に徴兵され、1945年まで兵役でプレーできなかった。 はAAA級ジャージーシティ・ジャイアンツでプレー。打率.280、26本塁打、92打点の好成績を残し、9月にはメジャーリーグ昇格を果たし、18試合に出場した。 には中堅手に定着、138試合に出場し打率.283、29本塁打、85打点とルーキーとしては抜群の活躍をしたがジャッキー・ロビンソンがいたために新人王にはなれなかった。 はキャリア・ハイとなる198安打、打率.309、109打点に27本塁打を記録、1951年にはキャリア・ハイの32本塁打を放つなど主軸打者として活躍した。 ワールドシリーズ進出をかけてブルックリン・ドジャースと対戦したナショナルリーグ優勝決定プレイオフでトムソンは球史に残る一打を放つ。 1勝1敗で迎えた最終第3戦、ドジャースがエースドン・ニューカムの好投と打線の活躍で4対1とリードした9回裏、敗色濃厚のジャイアンツは先頭のアルヴィン・ダークがセカンドへの内野安打で出塁、ドン・ミューラーもライト前ヒットで続く。モンテ・アーヴィンはファーストへのファウルフライでワンアウトとなるが、ホワイティ・ロックマンが左中間へタイムリー二塁打を放ち1点を返す。 ドジャースのチャック・ドレッセン監督はニューカムを諦め、救援にラルフ・ブランカを送る。打席には第1戦でブランカから本塁打を放ったトムソンを迎える。トムソンは初球ストライクの後の2球目をレフトスタンドへ運び『その一打が世界を変えた("Shot heard 'round the world")』逆転サヨナラスリーランホームランとなった。なお、この時に次の打者として待機していたのが当時まだ新人のウィリー・メイズであった。 2月1日にジャイアンツはミルウォーキー・ブレーブスとの間でトムソン&サム・カルデロンとジョニー・アントネッリ、ビリー・クラウス、ドン・リドル、エバ・セントクレアに加えて5万ドルという2対4プラス金銭の大型トレードを行った。しかし移籍早々に練習試合で足首を骨折し、その年は結局43試合の出場にとどまった。この時にトムソン離脱のチャンスをものにしてレギュラーに定着したのがハンク・アーロンであった。 6月15日にレッド・ショーエンディーンストとのトレードでジャイアンツに復帰。 4月3日、シカゴ・カブスへ移籍。 12月1日、アル・シュロールとのトレードでボストン・レッドソックスに移籍。 7月4日にボルチモア・オリオールズへ移籍したが、7月26日に放出された。このシーズン限りで現役を引退し、製紙会社のセールスマンに転職した。 にスコットランド・スポーツ殿堂入りを果たした。 8月16日、ジョージア州サバンナ (ジョージア州)で死去。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボビー・トムソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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