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ボビー・ヒーナン(Bobby Heenan、本名:Raymond Louis Heenan、1944年11月1日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、マネージャー、コメンテーター。イリノイ州シカゴ出身〔。 ヒールのマネージャーとしての悪賢さから、ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナン(Bobby "The Brain" Heenan)と呼ばれ、Weasel(イタチ、卑怯者)と罵られることもある。そのキャラクター・イメージから、ギミック上はカリフォルニア州ビバリーヒルズ出身とされた〔。 現在でも多くのレスラーやファンから「史上最高のマネージャー」と讃えられる生粋の悪徳マネージャー〔DVD『WWE ワールド・グレイテスト・レスリング・マネージャーズ』(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)〕。数多くの名選手をマネージメントし、見方によってはハルク・ホーガン最大の宿敵であった〔〔。彼によってマネージメントされた選手のグループは、ヒーナン・ファミリー(The Heenan Family)と呼ばれる〔。 == 来歴 == 幼少期に父親が家出して祖母と母親に育てられたが、15歳の時に母親が失業。家計を助けるために学校を中退して様々な職に就いた後、子供の頃からファンだったプロレス業界に入り、リングボーイとなってレイ・スティーブンスの付き人や会場の雑用係を務めていた〔。1965年、ディック・ザ・ブルーザーの主宰するインディアナポリスのWWAにて、プロレスラー兼任のプレイング・マネージャー "プリティボーイ" ボビー・ヒーナンとしてデビュー〔。アンジェロ・ポッフォ&クリス・マルコフのデビルズ・デュオのマネージャーを担当した。 1969年のAWA入団後は、当時ラリー・ヘニングが同じニックネームを用いていたため、ザ・ブレインを名乗り〔、レイ・スティーブンス&ニック・ボックウィンクル、ザ・ブラックジャックス(ブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)、ボビー・ダンカンらのマネージャーを務める。AWAと提携関係にあった古巣のWWAではバロン・フォン・ラシクやバリアント・ブラザーズ("ハンサム" ジミー・バリアント&"ラシャス" ジョニー・バリアント)も担当するなど、1970年代はAWAとWWAを股にかけて活動した。レスラーとしては、1974年にシカゴとインディアナポリスに特別参戦したザ・シークのタッグ・パートナーに起用され、ディック・ザ・ブルーザー&ボボ・ブラジルと対戦している。 1979年にはブラックジャック・ランザと共にジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦。キラー・カール・コックス、マスクド・スーパースター、アーニー・ラッド、プロフェッサー・タナカら同地のヒール勢を引き入れ、ジョージア・ヒーナン・ファミリーを組織する。1年後にはAWAに復帰して再びボックウィンクルと組み、円熟期に入った彼を支えると共に、スーパー・デストロイヤー・マークIIやケン・パテラなどのヒールをマネージメントした。レスラーとしても、バック・ズモフが保持していたAWA世界ライトヘビー級王座に再三挑戦し、勝利を収めたこともあったが、当時の体重がライトヘビー級のリミットを超えているとして戴冠は認められなかった。 1984年、WWFと契約。当初はジェシー・ベンチュラのマネージャーを予定されていたが、ベンチュラが病気により引退したためビッグ・ジョン・スタッドに付く〔。その後もヒール転向後のアンドレ・ザ・ジャイアント、キングコング・バンディ、ポール・オーンドーフ、ハーリー・レイス、リック・ルード、アーン・アンダーソン、ミスター・パーフェクト、リック・フレアー、他にも数々の大物選手を担当した〔。彼らのほとんどはハルク・ホーガンの反対側のコーナーに立っていたヒールであり、ヒーナンがホーガン、あるいはアルティメット・ウォリアーなどに叩きのめされるシーンは1980年代のWWEを象徴する名場面の一つだった〔。 1980年代後半からは ''"Broadcast Journalist"'' と称し、看板番組『プライムタイム・レスリング』『レスリング・チャレンジ』のカラー・コメンテーターにも就任。相方のアナウンサー役、ゴリラ・モンスーンとの実況は史上最高の名コンビと名高い〔〔。徹底してヒール選手に肩入れし毒の強いコメントを連発するヒーナンと、常に冷静でまじめなモンスーンとの絶妙な掛け合いは、後のジェリー・ローラーとジム・ロスのコンビにも影響を与えた(ローラーは「実況に笑いを持ち込んだヒーナンのことは意識している」などと語っている〔DVD『グレイテスト・レスリング・スターズ'80s』DISC-2(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)〕)。 1994年、WCWに移籍。実況チームの一員として活躍後、2000年に退団。2001年のレッスルマニアX-Sevenで行われたギミック・バトルロイヤルでは解説者としてミーン・ジーン・オーカーランドとコンビを組み、久々にWWEにゲスト出演した。 2002年、喉頭癌と診断され、声帯を摘出する手術を受けた。2004年、WWE殿堂入り(インダクターはオーカーランド)〔〔。2005年にはオーンドーフ、2006年にはブラックジャックス、2007年にはニック・ボックウィンクルの、それぞれの殿堂入りインダクターとしても式典に出席した。病気の後遺症のためか往時と比べると痩せ細り、声にも力は無くなったものの、そのトークの切れ味は変わらず絶妙で、毎回客席を笑いの渦に巻き込んだ。 2009年12月、顎部に癌の感染症が再見される。2010年4月17日にはTNAロックダウンのファンフェスタにドリー・ファンク・ジュニアらと共に出席したが、その後は舌癌との闘病生活を送っている。 日本へは1971年7月、国際プロレスにブラックジャック・ランザのプレイング・マネージャーとして初来日。1981年7月には全日本プロレスに来日し、当時新日本プロレスから移籍してきたばかりのタイガー・ジェット・シンのマネージャー役を務めた。全日本へはWWF移籍前の1984年5月にも参戦した(盟友のリック・フレアーとハーリー・レイスも同シリーズに特別参加している)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボビー・ヒーナン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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