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ボビー・ヒーナン : ミニ英和和英辞書
ボビー・ヒーナン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ビー : [びー]
 (n) bee, (n) bee
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ボビー・ヒーナン : ウィキペディア日本語版
ボビー・ヒーナン[ちょうおん]

ボビー・ヒーナンBobby Heenan、本名:Raymond Louis Heenan1944年11月1日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーマネージャーコメンテーターイリノイ州シカゴ出身〔。
ヒールのマネージャーとしての悪賢さから、ボビー "ザ・ブレイン" ヒーナンBobby "The Brain" Heenan)と呼ばれ、Weaselイタチ、卑怯者)と罵られることもある。そのキャラクター・イメージから、ギミック上はカリフォルニア州ビバリーヒルズ出身とされた〔。
現在でも多くのレスラーやファンから「史上最高のマネージャー」と讃えられる生粋の悪徳マネージャー〔DVD『WWE ワールド・グレイテスト・レスリング・マネージャーズ』(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)〕。数多くの名選手をマネージメントし、見方によってはハルク・ホーガン最大の宿敵であった〔〔。彼によってマネージメントされた選手のグループは、ヒーナン・ファミリーThe Heenan Family)と呼ばれる〔。
== 来歴 ==
幼少期に父親が家出して祖母と母親に育てられたが、15歳の時に母親が失業。家計を助けるために学校を中退して様々な職に就いた後、子供の頃からファンだったプロレス業界に入り、リングボーイとなってレイ・スティーブンスの付き人や会場の雑用係を務めていた〔。1965年ディック・ザ・ブルーザーの主宰するインディアナポリスWWAにて、プロレスラー兼任のプレイング・マネージャー "プリティボーイ" ボビー・ヒーナンとしてデビュー〔。アンジェロ・ポッフォ&クリス・マルコフのデビルズ・デュオのマネージャーを担当した。
1969年AWA入団後は、当時ラリー・ヘニングが同じニックネームを用いていたため、ザ・ブレインを名乗り〔、レイ・スティーブンス&ニック・ボックウィンクルザ・ブラックジャックスブラックジャック・マリガン&ブラックジャック・ランザ)、ボビー・ダンカンらのマネージャーを務める。AWAと提携関係にあった古巣のWWAではバロン・フォン・ラシクバリアント・ブラザーズ"ハンサム" ジミー・バリアント&"ラシャス" ジョニー・バリアント)も担当するなど、1970年代はAWAとWWAを股にかけて活動した。レスラーとしては、1974年シカゴとインディアナポリスに特別参戦したザ・シークのタッグ・パートナーに起用され、ディック・ザ・ブルーザー&ボボ・ブラジルと対戦している。
1979年にはブラックジャック・ランザと共にジム・バーネットの主宰するNWAジョージア地区のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦。キラー・カール・コックスマスクド・スーパースターアーニー・ラッドプロフェッサー・タナカら同地のヒール勢を引き入れ、ジョージア・ヒーナン・ファミリーを組織する。1年後にはAWAに復帰して再びボックウィンクルと組み、円熟期に入った彼を支えると共に、スーパー・デストロイヤー・マークIIケン・パテラなどのヒールをマネージメントした。レスラーとしても、バック・ズモフが保持していたAWA世界ライトヘビー級王座に再三挑戦し、勝利を収めたこともあったが、当時の体重がライトヘビー級のリミットを超えているとして戴冠は認められなかった。
1984年WWFと契約。当初はジェシー・ベンチュラのマネージャーを予定されていたが、ベンチュラが病気により引退したためビッグ・ジョン・スタッドに付く〔。その後もヒール転向後のアンドレ・ザ・ジャイアントキングコング・バンディポール・オーンドーフハーリー・レイスリック・ルードアーン・アンダーソンミスター・パーフェクトリック・フレアー、他にも数々の大物選手を担当した〔。彼らのほとんどはハルク・ホーガンの反対側のコーナーに立っていたヒールであり、ヒーナンがホーガン、あるいはアルティメット・ウォリアーなどに叩きのめされるシーンは1980年代のWWEを象徴する名場面の一つだった〔。
1980年代後半からは ''"Broadcast Journalist"'' と称し、看板番組『プライムタイム・レスリング』『レスリング・チャレンジ』のカラー・コメンテーターにも就任。相方のアナウンサー役、ゴリラ・モンスーンとの実況は史上最高の名コンビと名高い〔〔。徹底してヒール選手に肩入れし毒の強いコメントを連発するヒーナンと、常に冷静でまじめなモンスーンとの絶妙な掛け合いは、後のジェリー・ローラージム・ロスのコンビにも影響を与えた(ローラーは「実況に笑いを持ち込んだヒーナンのことは意識している」などと語っている〔DVD『グレイテスト・レスリング・スターズ'80s』DISC-2(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)〕)。
1994年WCWに移籍。実況チームの一員として活躍後、2000年に退団。2001年レッスルマニアX-Sevenで行われたギミックバトルロイヤルでは解説者としてミーン・ジーン・オーカーランドとコンビを組み、久々にWWEにゲスト出演した。
2002年、喉頭と診断され、声帯を摘出する手術を受けた。2004年WWE殿堂入り(インダクターはオーカーランド)〔〔。2005年にはオーンドーフ、2006年にはブラックジャックス、2007年にはニック・ボックウィンクルの、それぞれの殿堂入りインダクターとしても式典に出席した。病気の後遺症のためか往時と比べると痩せ細り、声にも力は無くなったものの、そのトークの切れ味は変わらず絶妙で、毎回客席を笑いの渦に巻き込んだ。
2009年12月、顎部に癌の感染症が再見される。2010年4月17日にはTNAロックダウンのファンフェスタにドリー・ファンク・ジュニアらと共に出席したが、その後は舌癌との闘病生活を送っている。
日本へは1971年7月、国際プロレスにブラックジャック・ランザのプレイング・マネージャーとして初来日。1981年7月には全日本プロレスに来日し、当時新日本プロレスから移籍してきたばかりのタイガー・ジェット・シンのマネージャー役を務めた。全日本へはWWF移籍前の1984年5月にも参戦した(盟友のリック・フレアーとハーリー・レイスも同シリーズに特別参加している)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ボビー・ヒーナン」の詳細全文を読む




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