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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ボフダン・フメリニツキー(〔ラテン文字転写の例: 。ポーランド語名ではボフダン・ゼノビ・フミェルニツキ()、ロシア語名ではボグダン・ジノーヴィイ・ミハーイロヴィチ・フメリニーツキイ()。〕、1595年 - 1657年8月6日)は、ポーランド・リトアニア共和国の貴族で、ウクライナ・コサックの指導者である。ザポロージャのコサックの(1622年 - 1647年)や、ウクライナ・コサックの最高指導者ヘーチマン(1648年 - 1657年)を務めた。ヘーチマンとして、ポーランド・リトアニア共和国に対し1648年から1657年にかけて反乱を起こした(フメリニツキーの乱)。キエフ・ルーシ崩壊後のウクライナ史上最大の英雄とされるが〔黒川 (2002), p.100〕、一方で19世紀ウクライナの詩人タラス・シェフチェンコは「ウクライナをロシアに売った」として非難した〔黒川 (2002), p.112〕。 == 生涯 == === 前半生 === 1595年にドニプロー川中流域のチヒルィーン近郊にあるスボーチウに生まれた〔。父はコサックの小領主であった。フメリニツキーは実家の近所の教会学校で初等教育を受けたあと、ヤロスワフのイエズス会神学校、あるいはポーランドの大将軍スタニスワフ・ジュウキェフスキが自らの地元リヴィウに設立した学校で中・高等教育を受けたとされている。通常のローマ・カトリック教徒の同級生が多いなか、ボフダン少年は正教会に所属しつづけた〔。学校では世界やポーランドの歴史、ウクライナ語、ポーランド語、ロシア語、トルコ語(オスマン語)、ラテン語を習得したとされる〔黒川 (2002), p.101、仏の作家プロスペル・メリメ著『ボグダン・フメリニーツキー』より〕。 1620年、父に従いツェツォーラの戦いに従軍し、ポーランド軍の一員としてオスマン帝国軍と戦った〔黒川 (2002), p.101〕〔『ロシア史1』, pp.378-379〕。この戦いで父が戦死し、フメリニツキー自身は捕虜となり、イスタンブルに2年間抑留された〔。この間もトルコ語の習得に余念がなく、オスマン帝国の情勢に精通するようになった。1622年に母親が身代金を工面したため帰国を許された。その後、登録コサックに入り、チヒルィーンの百人隊の隊長兼書記官となった。領地経営の傍らコサックの対外交渉団に加わり、交渉相手のポーランド王からも高い評価を得たとされている〔黒川 (2002), p.102〕。 1637年から1638年に起きたウクライナ・コサックのポーランドに対する反乱の際には、オタマーン(コサック指導者)の軍団書記として従軍した〔。 1645年ごろにはコサック傭兵の参加問題でポーランド政府からフランス王国に派遣された他、ポーランド王ヴワディスワフ4世の対クリミア作戦計画にも参加した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボフダン・フメリニツキー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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