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"バレット" ボブ・アームストロング("Bullet" Bob Armstrong、本名:Joseph Melton James、1939年10月3日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ジョージア州マリエッタ出身。 ジョージア・ジョー・クラッカー(Georgia Jaw Cracker)の異名を持つベビーフェイスのパワーファイターとして、現役選手時代は地元のジョージアやアラバマなどのディープサウスを主戦場に活動した。 息子のスコット、ブラッド、スティーブ、ブライアンもプロレスラーである。 == 来歴 == アメリカ海兵隊では韓国に駐留し、除隊後は消防隊員を経て、1960年代中盤にプロレスラーとしてデビュー〔。ボブ・アームストロング(Bob Armstrong)をリングネームにベビーフェイスのポジションで活動し、1967年にNWAの新人賞を受賞〔、1968年8月には日本プロレスに初来日している。 アメリカでは地元のNWAジョージア地区を主戦場に、1970年11月24日にポール・デマルコと組んでスカンドル・アクバ&バディ・コルトからメイコン・タッグ王座を奪取、タイトル初戴冠を果たした。コルトとはメイコン・ヘビー級王座やジョージア版の南部ヘビー級王座も争っている。以降もジョージアでは、後にアラバマでも活動を共にするロバート・フラーをパートナーに、ボビー・ダンカンやトール・タナカなどが率いるチームを破りジョージア・タッグ王座を再三獲得した。 1972年3月、ジム・ドランゴ(Jim Durango)の変名で新日本プロレスの旗揚げシリーズに来日〔。特別参加のカール・ゴッチに次ぐ外国人エース格として、 3月6日に大田区体育館で行われた旗揚げ第1戦では「弟」という設定のジョン・ドランゴ(ダレル・コクラン)と組み、セミファイナルで豊登&山本小鉄と対戦。シリーズ中はアントニオ猪木とのシングルマッチも2度行われた。 1970年代中盤からはテネシー州メンフィスのNWAミッドアメリカ地区にも進出、1975年9月29日にモンゴリアン・ストンパーから南部ヘビー級王座を、10月13日にはハーリー・レイスからミッドアメリカ・ヘビー級王座をそれぞれ奪取した。メンフィスでは1977年にも、ジェリー・ローラーを相手に南部ヘビー級王座を争っている〔。 1970年代後半より、ロン・フラーが主宰していたアラバマのSECW(サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリング)に定着、1978年にデビッド・シュルツに勝利して南部版NWAサウスイースタン・ヘビー級王座の初代チャンピオンとなる。以降1985年にかけて、スターリング・ゴールデン、ジョー・ルダック、オースチン・アイドルらを破り、アラバマ地区のフラッグシップ・タイトルである同王座を南部版と北部版(統一版)を合わせ通算9回獲得した。その間、1981年にミスター・サイトーとデニス・コンドリーを下してNWAアラバマ・ヘビー級王座にも2回戴冠している。1983年12月16日には、バーミングハムにてリック・フレアーのNWA世界ヘビー級王座に挑戦した。 アラバマではSECWの後継団体CCW(コンチネンタル・チャンピオンシップ・レスリング)およびCWF(コンチネンタル・レスリング・フェデレーション)へも参戦。ザ・バレット(The Bullet)なる覆面レスラーへの変身や、息子のブラッドやスティーブとのタッグチームなどで活躍し、CWFが活動を停止する1980年代末まで出場を続けた。 引退後は2004年より、ジョージア、アラバマ、テネシーなど、かつて主戦場としていた南部のインディー団体やリユニオン・イベントへのスポット出場を開始。2005年からはB・G・ジェームズこと息子ブライアンのセコンド役としてTNAに登場、2006年4月23日のPPV『ロックダウン』ではコナンとアームレスリングで対決し、2008年2月10日の "Against All Odds" ではブライアンとのコンビでA・J・スタイルズ&トムコのTNA世界タッグ王座に挑戦した〔。 2011年、プロレス界における功績をたたえ、WWE殿堂に迎えられた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボブ・アームストロング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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