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ボブ・オートン・ジュニア : ミニ英和和英辞書
ボブ・オートン・ジュニア[じゅにあ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ジュニア : [じゅにあ]
 【名詞】 1. junior 2. (n) junior

ボブ・オートン・ジュニア : ウィキペディア日本語版
ボブ・オートン・ジュニア[じゅにあ]

ボブ・オートン・ジュニアBob Orton Jr.、本名:Robert Keith Orton Jr.1950年11月10日 - )は、アメリカ合衆国プロレスラーカウボーイ・ボブ・オートン"Cowboy" Bob Orton)のリングネームで知られる。カンザス州カンザスシティ出身。愛称は「エース」。父親のボブ・オートン、実弟のバリー・オートン、息子のランディ・オートンもプロレスラーである。
キャリア全盛期はカウボーイギミックヒールとして活動し、NWAWWF(現・WWE)の次期世界チャンピオンの有力候補とされたが、持ち前の反骨精神や素行の悪さも災いし〔『THE WRESTLER BEST 1000』P176(1996年、日本スポーツ出版社)〕、ビッグ・タイトルには縁がなかった。しかし、高度なレスリング技術と荒っぽい喧嘩ファイトが混在した独創的なスタイルは飛び抜けており、レスラー仲間や関係者、玄人筋のファンからの評価は非常に高い〔DVD『WWE グレイテスト・レスリング・スターズ '80s』DISC-3(2006年、ジェネオン・エンタテインメント)〕。また、ストリートファイトの強さでも一目置かれていた。
== 来歴 ==
ヒロ・マツダジャック・ブリスコのトレーニングを受け、エディ・グラハムが主宰していたNWAフロリダ地区で1972年にデビュー〔。1973年よりジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに転戦、当初はミスター・レスリング2号のパートナーに起用されるなどベビーフェイスのポジションにいたが、やがて鼻っ柱の強さを活かしたヒールに転向。1975年6月27日にはディック・スレーターとの喧嘩屋コンビでボブ・アームストロング&ロバート・フラーからNWAジョージア・タッグ王座を奪取した。
1976年5月25日には古巣のフロリダ地区でジャック・ブリスコを破りNWAフロリダ・ヘビー級王座を獲得。7月にダスティ・ローデスに敗れタイトルを失うも〔、同年にテリー・ファンクNWA世界ヘビー級王座に挑戦して「幻の戴冠」を果たすなど、次期NWA世界王者の有力候補に浮上した〔。
同時期、彼同様にシューターとして名を馳せたボブ・ループタッグチームを結成、1977年から1979年にかけて、フロリダやアラバマなど南部のタッグ戦線を席巻した。アラバマでは覆面レスラージ・インベーダーに変身し、1979年1月にジェリー・ブラックウェルと組んでタッグ王座を奪取したこともある。この間、1978年にはAWAに参戦、カウボーイギミックの先達であるブラックジャック・ランザのパートナーを務め〔『別冊ゴング 1978年11月号』グラビア「黒い荒馬ランザがAWAの激戦地でルール無視の暴走」(1978年、日本スポーツ出版社)〕、ランザやニック・ボックウィンクルと組んでグレッグ・ガニア&ジム・ブランゼルのハイ・フライヤーズが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦している。
1979年下期、ランディ・サベージの父親アンジェロ・ポッフォが立ち上げたケンタッキー州レキシントンの新興インディー団体ICW(インターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング)にボブ・ループや弟のバリー・オートンと共に参画。最終的にはポッフォと袂を分かつが、NWA非加盟の独立団体に協力したために、すぐにはNWAの主要テリトリーに戻ることができず〔、1981年からはループと共にビル・ワットMSWAに転出。テッド・デビアスマイク・ジョージジャンクヤード・ドッグらと抗争し、8月6日にはミシシッピ・ヘビー級王座も獲得した。
1982年2月より、グラン・ウィザードマネージャーに迎えてWWFに登場。8月2日にニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンにてボブ・バックランドWWFヘビー級王座に挑戦し、10月4日の定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアントとシングルマッチで対戦した。また、当時ペドロ・モラレスが保持していたインターコンチネンタル・ヘビー級王座にも再三挑戦している。
1983年からはジム・クロケット・ジュニアが主宰するノースカロライナNWAミッドアトランティック地区に参戦し、旧友スレーターと共に当時のNWA世界王者ハーリー・レイスボディーガードとなってリック・フレアーリッキー・スティムボートと抗争。翌年1月8日にはドン・カヌードルをパートナーに、トーナメントの決勝でドリー・ファンク・ジュニア&ジミー・バリアントを下してミッドアトランティック版のNWA世界タッグ王座を獲得した。
1984年ビンス・マクマホン・ジュニアの政権下で新体制となったWWFと再契約を果たす。ロディ・パイパーポール・オーンドーフとヒールのユニットを結成し、ハルク・ホーガンと敵対する悪役3人組の1人として活躍した。1985年には『サタデー・ナイト・メイン・イベント』の第1回放送(5月10日収録、翌11日放送)においてホーガンのWWF世界ヘビー級王座に挑戦している。またこの頃から左前腕にギプスを装着し、凶器として用いることもあった。レッスルマニア第1回大会のメインイベントでは彼の凶器ギプス攻撃の誤爆が決まり手となっている。その後オーンドーフがグループを離脱してからもパイパーとはコンビを組み続け、パイパーのベビーフェイス転向後はドン・ムラコと新コンビを結成していたが、1987年にWWFを退団した。
以降はジム・コルネットが主宰するノックスビルのSMWやシカゴのAWF、カリフォルニア州マリナ・デル・レイのUWFなど各地のインディー団体で活動後、1990年代後半に引退した。
2005年に入り、WWEで息子ランディ・オートンジ・アンダーテイカー抗争アングルが開始されると、ランディのマネージャー役としてスマックダウンに登場。4月3日のレッスルマニア21ではランディ対テイカー戦に乱入、往年の凶器ギプス攻撃を見せた(レッスルマニア前日にはWWE殿堂に迎えられている)。その後も息子のマネージャーとなって活動、試合にも時折出場した。
2005年12月18日のアルマゲドンにおいて、ジ・アンダーテイカーとの試合中にストーリー上の吐血。オートンはかつて血液から感染する肝炎を患っていたことがあり、その事実を知りながらストーリーを変更しなかったWWEのライター陣に対してアンダーテイカーが激怒。その結果ボブ・オートン・ジュニアが絡むストーリーラインは終了することとなり、2006年2月13日にWWEを解雇された。
その後は2010年11月15日のRAW(オールド・スクール・エディション)、2012年4月20日のスマックダウンに登場。スマックダウンではランディの抗争相手ケインの襲撃を受けるなどストーリーにも絡んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ボブ・オートン・ジュニア」の詳細全文を読む




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