|
ロバート・“ボブ”・サタイアクム(1929年3月2日 – 1991年3月25日)は、アメリカインディアンの民族運動家、酋長。 ==来歴== 1929年3月2日 、ワシントン州タコマのインディアン部族、ピュヤラップ族のレオとアラの間に生まれた。祖父のチャーリー・サタイアクムはドゥワミッシュ族の酋長だった。シャーリー、デローリス、リリアン、アルマと、きょうだいは女ばかりだった。 1947年、タコマ市のリンカーン高校を卒業。スポーツマンとして鳴らし、1950年代初頭に、「ファイフ・レッド」という地元の野球団の選手も務めている。ボブはこの時期に、のちに「全部族インディアン連合財団」(UIATF)を発足させるバーニー・ホワイトベアーと知り合った。 ボブの母族であるピュラリップ族を始め、多くの地元のインディアン部族は、州下の河川でのサケ漁を生業としている。ワシントン州が1853年に合衆国に併合されたとき、8,000人以上のインディアンが、カスケード山脈とコロンビア北西に住んでいた。 初代州知事イサーク・インガルズ・スティーブンスは、インディアン部族の州管理局長でもあり、スティーブンスは、ワシントン州となったインディアンの領土を白人入植者のために割譲させ、彼らを保留地に追い込むため、連邦条約交渉を始めた。 武力を背景としたこの条約交渉で、スティーブンスはワシントン州のインディアン部族と、1854年の「メディシン・クリーク条約」を始めとする6つの条約を結んだ。結果、約25万9千㎢の土地を州のものとした一方で、条約はその文言において、「州下のすべての市民と共用して、ごく普通の場所でのいずれでも、魚を獲る権利をインディアンが保有する」と認めた。 豊富な同州の漁猟資源を巡るインディアン部族と白人入植者との争いは、この条約締結直後から始まった。(→合衆国対ワイナンズ法廷戦) 20世紀に入り、白人の大規模な商業サケマス漁と缶詰加工業は、たちまち州下のサケマス資源を減らした。1930年代から40年代にかけ、ワシントン州は「減少した漁業資源の保護のため」として、州下でのサケマス漁を制限するようになった。これに対し、ワシントン州の釣りをスポーツとして楽しんでいる白人たちや、商業漁業者たちは、「インディアン条約によって、インディアンを特別待遇するべきでない」と主張し始めた。これを受け、州は「すべての市民と共用する」という条約の文言をもとに、「州の規制はインディアンにも適用される」と判断し、インディアン部族に州の規制を適用した。インディアンの伝統的なサケマス漁は、白人の法律によって「密猟」とされたのである。 生活を脅かされた州下の多数のインディアン部族は、「そもそも白人の商業的漁業、ダム建設、森林伐採が、漁業資源の減少の原因である」として、この圧迫に反対の声を上げ始めた。彼らは「条約上の権利」として、保留地と、「ごく普通の場所のいずれでも」、魚を獲る権利を保証されたものと判断していた。「ワシントン州とインディアン部族は条約で連邦提携した別個の国家であり、『すべての市民』との文言に、インディアン部族は当てはまらない」、と主張したのである。1942年、ヤカマ族のサンプソン・チュリーとワシントン州とが漁業権を巡って争った「チュリー対ワシントン州法廷戦」で、合衆国最高裁はサンプソンの生得権主張を退け、条約の文言はインディアン部族にも州の制限が及ぶものとして、サンプソン敗訴の判決を下した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボブ・サタイアクム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|