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ボヘミア王冠領(ボヘミアおうかんりょう)またはボヘミア王国の王冠(ボヘミアおうこくのおうかん、捷:Česká koruna, země Koruny české、独:Krone Böhmen; Böhmische Krone, Böhmische Kronländer, Länder der Böhmischen Krone、羅:Corona Bohemiae, Corona Regni Bohemiae)は、ボヘミア王国及び王国と封建上の主従関係(レーエン)にある従属邦の集合体を指す国制概念。この場合の「ボヘミアの王冠」とは、いわゆる「聖ヴァーツラフの王冠」(en)と呼ばれる、国王が頭に被る物体としての王冠のことではなく、ボヘミア王の主権下に、ボヘミア国家を構成する諸身分が統合されている状態を表している。この国制概念は、1526年よりボヘミア王冠領が属していたハプスブルク帝国が1918年に崩壊するまで存在していた。 == 歴史 == 12世紀から13世紀にボヘミアと結びついていた封土は、モラヴィア辺境伯領とグラーツ伯領(Grafschaft Glatz)だけであった。ルクセンブルク家のヨハンとカール4世の治世に、積極的な併合政策によってシレジア、オーバーラウジッツ及びニーダーラウジッツから多数の小規模な封土が、ボヘミア王冠領に加えられた。 カール4世は王国の諸身分に対し、ルクセンブルク家の王朝が断絶した場合でも、王朝の興亡とは関係なく王冠領の結合を保ち続けるように命じた。王冠領の結合は、1526年にフェルディナント1世の即位に伴ってボヘミア王位がハプスブルク家に相続された後も保たれ続けた。ハプスブルク帝国において、ボヘミア王冠領はハンガリー王冠領及びオーストリア大公国と共に、中欧に君臨するハプスブルク家の3大家領の1つを構成した。 ボヘミア王冠領は、単なる人的同君連合でも、各構成体が同等の権利を有する連邦でも無かった。王冠領の国制は人体に譬えるならば、ボヘミア王国と王国の諸身分が「頭」であり、その他の諸封土が「手足」という序列になっていた。ボヘミア王冠領における「頭部」と「手足」の地位の開きは大きく、王国の諸身分、つまりボヘミア人は王冠領内における政治的・社会的主導権を独占する権利を要求し、これに対してモラヴィア、シレジア、ラウジッツ側は自由意思によってボヘミア王冠に属しているという国制上の原則を持ち出し、自分たちが自治権を持つことを主張した。 ボヘミア王国の近隣の諸封土に対する優越には、そもそも法的根拠など無かったが、15世紀初頭にはより強い権限を求め、国王選挙での独占的選挙権を要求している。しかし1620年以降は、ボヘミア王冠領そのものがはるかに大きな権限を有するハプスブルク帝国に圧倒されてしまったため、王冠領内の各構成体の間の競合は見られなくなった。 ボヘミア王冠領の全ての諸構成体が共有している国家機関は、国王だけであったが、危機の時代にはこれが王冠領の欠点となった。王冠領の諸邦の代表が一堂に会する王冠領議会(Generallandtag)は、めったに開かれることは無かった。ボヘミアの大法官(Oberstkanzlers)の統率下に置かれる宮内官房(Böhmische Hofkanzlei)だけが、王冠領の全領土に対して責任を有していた。しかし宮内官房も1620年にプラハからウィーンに移され、1714年には官房用の庁舎が建設されている。 共通の政治機関をほとんど持たなかったにもかかわらず、ボヘミア王冠領の諸邦の間には16世紀より強い政治的連帯感が見られるようになった。三十年戦争が始まると、王冠領の諸邦はボヘミア連盟(Böhmische Konföderation)を結成したが、この連盟の結成はボヘミアの政治体制の近代化にとって重要な意味を持っていた。もっとも1620年にビーラー・ホラの戦いで皇帝軍が勝利すると同時に、この実験的国家も消滅した。 時代が下るにつれ、ボヘミア王冠領はオーストリア内の構成地域としての重要性を失っていった。1635年にはプラハ条約によりラウジッツをザクセン選帝侯領に奪われた。1742年のベルリン条約で、オーストリア大公国はシレジアの大部分とグラーツ伯領をブランデンブルク=プロイセンに割譲している。オーストリア側に残ったシレジアの一部は、上下シュレージエン公爵領(Herzogtum Ober- und Niederschlesien、現在のチェコ領シレジア)として1918年までハプスブルク帝国の版図に留まっていた。ハプスブルク帝国末期、ツィスライタニアの構成地域になり下がっていたボヘミア、モラヴィアとオーストリア領シレジアなどのボヘミア王冠領諸邦が、独自の権限を持つことは許されなくなっていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボヘミア王冠領」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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