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ボルテ・ウジン(、 1161年? - ?)は、モンゴル帝国の始祖チンギス・カンの第一皇后。部族出身。漢字表記は孛児台、『元朝秘史』では孛児帖旭真、『集史』のペルシア語ではと表記される。「ウジン」とは漢語の夫人に由来する称号でモンゴル王族の正妃が名乗る尊称である。元朝から光献翼聖皇后と諡名される。名はモンゴル部族の始祖として夙に有名な「蒼き狼(ボルテ・チノ)」のボルテと同じで、「灰色のまだら模様」を意味する。 == 人物 == カブル・カン以来モンゴル部族の姻族として知られた(オンギラト、フンギラト)部族の一氏族の首長の娘で、『元朝秘史』ではチンギス・カンより1歳年上だったとされる。『元史』「特薛禅(デイ・セチェン)伝」によると、父デイ・セチェンの姓はボスカウル(孛速忽)氏であったといい、コンギラト部族本家から分岐した一族と思われる。『集史』「コンギラト部族誌」によると、コンギラト部族は、モンゴル部族においてキヤト氏族をはじめとするニルン部族集団に隷属するドルルキン部族集団を代表する部族である。伝承によるとコンギラト部族は「黄金の壷(Altan Quduq)」から派生した3人の始祖を起源とするが、デイ・セチェンの一族はこのコンギラト部族本家となる三始祖の長ジュルク・メルゲンの後裔とされる。ボルテはまだ子供の頃に父とチンギスの父イェスゲイとの間で婚約が結ばれ、成人した後にチンギスと結婚した。 結婚してあまり経たない頃、高原北部の有力部族メルキトの首長トクトア・ベキが傘下のウアス、カアトの各氏族の首長たちと軍を引連れてテムジン(後のチンギス・カン)の幕営を襲い、ボルテは逃げ遅れてメルキトに抑留された。まだ勢力の弱小だったチンギスの保護者であったイェスゲイの盟友でケレイト部の王であるオン・カンはメルキトに圧力をかけ、ボルテの身柄はメルキトからケレイトに移され、ケレイトからチンギスのもとに無事送り返された。この旅路の最中にボルテはチンギス・カンの長男を生み、「旅客」を意味するジョチという名前を授けられる。また、『元朝秘史』ではより劇的で、このときチンギス・カンはオン・カンおよびジャムカと同盟してメルキトを破り、武力でボルテを救い出したという話になっている。また、『元朝秘史』によれば、ボルテはメルキト部族の男と強制的に結婚させられていたため、ボルテがジョチを妊娠したのは強姦によるものではないかと疑われたとされる。 一方、『集史』ジョチ・ハン紀によると、ボルテがメルキトの手勢に連行された時、既に彼女は妊娠した状態だったという。やはりここでもケレイトのオン・カンがメルキト側と交渉してボルテを取り戻し、オン・カンはテムジンを自らの「息子」と称して尊重していたため、彼女を鄭重に保護してテムジンのもとへ送り戻した。その旅中でボルテはにわかに産気づいて男児を出産した。そのため、この男児は旅中で生まれたため「ジョチ」と名付けられた、と述べる。 『元朝秘史』によると、テムジンがジャダラン部族のジャムカと同盟していた時、彼らの一統とテムジンの一門が同じ宿営地に滞在しようとしたところ、ボルテはテムジンに語ったジャムカの発言に彼の変心と背離を読み取り、ジャムカを危険視して彼を避けるよう説得し、テムジンの一門は宿営地を引き払ったという。 その後、ジョチの3人の弟チャガタイ、オゴデイ、トルイと5人の女子を生み、男子はチンギス・カンの後継者候補としてその征服事業を助けて活躍し、女子はいずれもチンギス・カンと同盟した有力な部族の長のもとに嫁いだ。 チンギス・カンが勢力を拡大するとやがて様々な部族から迎えられた数十人の女性が后妃とされてゆくが、ボルテは正妻、第一皇后としての地位を保って尊重された。チンギスの後継者候補として認められたのはボルテの生んだ4人の男子のみであったことからも、ボルテが他の后妃とは別格の扱いであったことがうかがえる。チンギスが高原を統一してモンゴル帝国を興すと、チンギス直営の宮殿である四大オルドのうちの第一オルド(別名大オルド)の管理権を委ねられ、大オルドに付随する領民を治めてチンギスの盛んな遠征の留守を守った。彼女はチンギスの本営である大オルド Yeke Ordo の首長として『元史』によれば自らを含め7人の皇后(カトン)と1人の妃(エメ)を司った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボルテ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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