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ホルヘ・フランシスコ・イシドロ・ルイス・ボルヘス・アセベード(Jorge Francisco Isidoro Luis Borges Acevedo、1899年8月24日 - 1986年6月14日)は、ホルヘ・ルイス・ボルヘス()として知られるアルゼンチン出身の作家、小説家、詩人。特に『伝奇集』『エル・アレフ』などに収録された、夢や迷宮、無限と循環、架空の書物や作家、宗教・神などをモチーフとする幻想的な短編作品によって知られている。彼の評価は1960年代の世界的なラテンアメリカ文学ブームによって確立され、その作品は20世紀後半のポストモダン文学に大きな影響を与えた。 == 経歴 == === 出自と学歴 === 1899年、ボルヘスは教養ある中産階級の家庭に生まれた。出生した場所はブエノスアイレスの中心区であったが、それから間もなく一家は同都市郊外のパレルモに転居している。父 ホルヘ・ギリェルモ・ボルヘス・ハズラムは弁護士であり、また外国語教師養成学校で英語を使った心理学の講義も受け持っていた。父方は、イタリア系やユダヤ系の血が流れており、セファルディム・ユダヤ人の末裔に当たる。ボルヘス自身はとりわけイギリスとユダヤの血を誇りにしていた。祖母はイングランド人であり、その英語は母親譲りのものであった。ボルヘスの母レオノール・アセベド・スアレスはウルグアイの旧家の出で敬虔なカトリックであった。母方の祖先にはヨーロッパからの南アメリカの植民に大きく関わった軍人もおり、家族はしばしばボルヘスに彼らの英雄譚を話して聞かせた。 家庭では英語とスペイン語の2言語が同じように使われていた。一家にはまた文学的伝統が受け継がれており、父方の先祖には何人かの詩人、文学者もいた。父は幾つかの文学作品の執筆を試みており、父方の祖母も80を過ぎてゴールズワージーやH・G・ウェルズに親しむ大変な読書家だった。その読書のほとんどが英語だった母は、夫が死んだ後にはサローヤンの『人間喜劇』やホーソーンの短編、ジョン・リードの美術論などを翻訳しており、ボルヘスは後年、彼自身のものとされているメルヴィル、フォークナー、ウルフの翻訳は彼女の手によるものだと述べている〔ボルヘス、47頁〕。彼女はボルヘスがのちに視力を失ってからも、口述筆記をし、替わりに手紙の返事を書き、旅行に同行するなどして彼の秘書役を務めた。 父の書庫には5000冊を越える膨大な蔵書があり、ボルヘスは幼い頃からここに出入りして、マーク・トウェイン、ポー、ウェルズ、ロングフェロー、ディケンズ、『ドン・キホーテ』(最初は英訳で読んだという)、グリム童話、『千夜一夜物語』などを英語で読み、スペイン語ではアルゼンチンの無法者やガウチョを描いた作品を好んで読んでいた。6歳の頃から見よう見まねで物語を書き始め、10歳のときにはワイルドの「幸福な王子」をスペイン語に訳し日刊紙「エル・パイス」に掲載されたが、「ホルヘ・ボルヘス」と署名されていたため周囲の人間は父親によるものだと思ったらしい〔ボルヘス、50頁〕。ボルヘスは父親の教育方針で学校教育を受けず、当初はイギリス人の家庭教師に付いていたが、9歳から市内の小学校に編入している。 1914年、第一次世界大戦勃発の前夜に、ボルヘス一家はスイスのジュネーヴに渡った。父親の眼の治療のためと、ボルヘスおよび妹のノラの進学のためである。ボルヘスはカルヴァン学院(Collège Calvin, 正式名Collège de Genève)の中等科に進んだ。授業ではラテン語、フランス語が使われており、これに加えてボルヘスはドイツ語を独習しハイネやマイリンク、ショーペンハウアーなどを読んでいた。その後一家は、アルゼンチンに戻ることを決めるが、その前にスペインで1年間生活することに決め、1919年にスペイン・バルセロナに移った。すでに1918年にカルヴァン学院でバカロレア資格〔Gene H. Bell-Villada ''"Borges and his fiction: a guide to his mind and art"'', p.16, Univ of Texas Pr, 2000.〕を取っていたボルヘスは創作に専念し、バルセロナでは『ギリシャ』誌を中心とする前衛的な文学運動ウルトライスモに参加した。スペイン滞在中にボルヘスはエッセイ集と詩集を書いたが、いずれも出版はせず破棄してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ホルヘ・ルイス・ボルヘス」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jorge Luis Borges 」があります。 スポンサード リンク
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