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ボレスワフ3世ロズジュトヌィ(Bolesław III Rozrzutny, 1291年9月23日 - 1352年4月21日)は、レグニツァ=ブジェク公(在位:1296年 - 1342年)、ヴロツワフ公(在位:1296年 - 1311年)。レグニツァ=ヴロツワフ公ヘンリク5世の長男で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘エルジュビェタ。異称「ロズジュトヌィ」は気前の良さを意味する。 == 生涯 == === ボヘミア王位への野心 === 父が1296年に死去した時はまだ5歳だったため、母エルジュビェタと父方の叔父で後見人のボルコ1世が摂政として公国を統治した。しかし、1301年にボルコ1世は急死し、母エルジュビェタも1304年に死去した。1301年から1302年にかけて幼いボレスワフ3世の後見人となっていたのはヴロツワフ司教ハインリヒ・フォン・ヴュルベンだったが、ヴュルベンは濡れ衣を着せられて司教の地位を追われた。この時期までにボヘミア王ヴァーツラフ2世が、豊かで戦略上も重要なヴロツワフ公国を支配するようになった。1302年、幼いボレスワフはプラハの宮廷に送られ、翌1303年1月13日にヴァーツラフ2世の7歳の末娘マルケータと婚約した。2人の結婚式は5年後の1308年に執り行われた。 ボレスワフ3世がボヘミア宮廷に現れてマルケータ王女と婚約して以後、ヴァーツラフ2世はこの未来の婿を寵愛し始めた。その寵愛ぶりは王の近しい男性親族達を恐れさせるほどで、彼らは若いレグニツァ公がボヘミアの次期国王候補として有力なライバルとなることを悟らされた。息子を後継者としては不適格だと思っていたヴァーツラフ2世(1300年からはポーランド王を兼ねた)が1305年に急死し、翌1306年に息子ヴァーツラフ3世がオロモウツで暗殺されると、ボレスワフ3世はボヘミアの王位を狙えるきわめて重要な立場になった。ボレスワフ3世は「ポーランド王位の相続者(haeres Regni Poloniae)」を名乗り、ボヘミア王位継承争いに参加した。 しかしレグニツァ=ヴロツワフ公の勢力は、オーストリア公ルドルフ3世、ケルンテン公ハインリヒ6世、ルクセンブルク家のヨハンといった、プシェミスル朝の後継者に名乗りを上げた他の候補達に太刀打ちできるものではなかった。ポーランドにおける後継者となるという目論見も、1306年から1307年にかけてカリシュを支配下に収めるのに失敗し、グウォグフ公ヘンリク3世に敗北したため、成し遂げられずに終わった。 1308年にオパヴァ公ミクラーシュ1世を屈服させてオパヴァ(トロッパウ)を得たが、3年後の1311年6月11日、ボレスワフ3世はオロモウツでの和約締結に際して銀8000本という莫大な賠償金と引き換えに同地域を放棄した。オパヴァはボヘミア王冠領に併合された後、1318年になってミクラーシュ1世の息子ミクラーシュ2世に与えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボレスワフ3世ロズジュトヌィ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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