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ボロ指向 : ミニ英和和英辞書
ボロ指向[しこう]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ゆび]
 【名詞】 1. finger 
指向 : [しこう]
  1. (n,vs) (1) OO (object oriented) 2. (2) directional (microphone) 3. (3) pointing (to) (vs)

ボロ指向 : ウィキペディア日本語版
ボロ指向[しこう]

ボロ指向(、またはボロ・フィーバー、またはボロ・マニア)は、1890年代アメリカ合衆国東端部のニュージャージー州で、行政単位としての小さな「ボロ」()が大量に作られたことを表す言葉である。ニュージャージー州議会が地方政府と教育体系を改革しようとしたことが、当時あったタウンシップを小さなボロに分割することに繋がった。これは特にバーゲン郡において甚だしく、現在も州の政治地図の上でそれらが割拠する状態を作っている。この動きは、ニュージャージー州でベッドタウンが開発され、その住民がそれまでの長きにわたって田園部で受けていた政府のサービスをより多く望むようになったために起こった。
19世紀の終盤、ニュージャージー州の大半は大きなタウンシップに分けられており、その中に幾つか小さな町があり、そのそれぞれでは1つの地方学校だけで1つの教育学区を形成するような状況だった。鉄道の経路近くに新しい開発地ができて、数を増していた通勤者は政府のサービスをより多く望むようになり、一方で農夫のような地域に長く住んでいた者達は税金が高くなるのを恐れた。そのような二者の間に政治的な論争が起こった。既存のタウンシップの中で、住民投票によって独立したボロを形成することを認める州法があったが、ほとんど使われてはいなかった。1893年遅く、通勤者の後押しを受けた共和党が州議会の多数派となり、その翌年には、2つ以上のタウンシップの部分を合わせて形成されたボロが、郡政委員会の代表を選ぶことを認める法を成立させた。この1894年の法は、1つのタウンシップの中で教育学区を1つに統合する同年に成立した法と組み合わされ、不満を抱いていた地域社会が分離してボロになることが容易になり、また魅力あるものになった。郡政委員会に委員を出すことができ、また地方の学校教育を支配し続けることができるからだった。
1894年と1895年で40の新しいボロが形成されたが、その大半がバーゲン郡内であり、タウンシップが分裂し、その大きさを大きく減らした。現在タウンシップはほとんど残っていない。州議会は1894年の法で過剰に多い自治体の形成を認めることになったと考え、1895年には郡政委員を選ぶ権利を止め、翌年には住民投票によってボロを形成できるルールを止めた。20世紀に入って議会が自治体を形成することが続いた。政府の費用を減らすために、近年、自治体を統合する動きがあったが、僅かに減っただけになっている。
== 背景 ==

1702年、東ジャージーと西ジャージーがニュージャージー植民地に統合されたとき、24のタウンシップがあった。イギリスの支配下で、特許状、裁判所命令、あるいは議会行動によって、さらに多くのタウンシップが追加された。アメリカ独立戦争の後、ニュージャージー州議会は全ての自治体認証を確認し、新しいものの形成を認めた。1798年時点で、州内には104のタウンシップがあった。エセックス郡モリス郡サセックス郡での経済活動が増加し、ウォーレン郡が創設されたことで、タウンシップの数は1834年で125になっていた。
タウンシップの大半は税金が低く、政府が小さかった。道路は大半が泥道であり、税金を安くすることと引き換えに農夫が維持した。タウンシップの集会は毎年2月にあった。住民が関心事項を検討し、解決案を求め、その意思を実行する代理人を集合的に指名した。各タウンシップの有権者は郡の政体である郡政委員会の代表を選出した。
19世紀の半ばから、鉄道がニュージャージー州に大きな変化をもたらした。それまでのニュージャージー州はほとんど農業社会だったが、鉄道の新線によって農夫達はその産品を容易に市場に送り出すことが可能になった。しかし、鉄道はニューヨーク市やフィラデルフィア市で雇用された者達が都心の中核の外に住み、毎日働きに行くことも容易にした〔。南北戦争の前であっても、エセックス郡オレンジ・タウンシップのブリックチャーチ駅はニューヨーク市から約15マイル (24 km) の位置にあり、国内では最初のベッドタウンの中心となった。ニュージャージー州のタウンシップは通勤者という新しい住民を獲得し、彼らが鉄道駅の近くに地域社会を形成し、照明で照らされた通りや道路、質の高い学校を望み、さらに政府における発言力を望んだ。しかしそれらの問題があっても、田園部にいる農業民(パンプキン・ダスター、すなわち、カボチャの泥にまみれた者と呼ばれた)は自分達が望んでいるわけでもないサービスのために税金を上げられることを恐れ、ことごとく反対した〔。
学校と教育学区の問題も、鉄道開通後に新しく住むようになった通勤者と、それ以前から長く住んできた住民の間で激論を生むことになった。教育学区の境界線はタウンシップの境界線とは別物だった。全ての学校が独自の教育学区を作っていた〔。その結果、タウンシップには多くの教育学区が含まれ、バーゲン郡のフランクリン・タウンシップには11の教育学区があり、生徒数は774人に過ぎなかった。
当時タウンシップに規定されていたタウンミーティング方式の政府は、変化する時代に合わなくなっていた。ニュージャージー州憲法では、州政府をトレントンに置き、タウンシップに対しては比較的弱い権限しかなかったが、時を経るにつれて議会は改革を試みた。タウンシップは道路地区に分割され、その保守が行われたことを監督する住民が指名された。1859年、州は各地区の住民に道路コミッショナーの選出を認め、道路税が適切に使われていることを監督させることになった。これら地区の多くは後にそれぞれの自治体となり、道路コミッショナーが初代首長になることが多かった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ボロ指向」の詳細全文を読む




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