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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ボーパープル(、1957年 - ? )はアメリカ合衆国のサラブレッドの競走馬、および種牡馬。1960年代のアメリカ競馬で活躍し、当時の最強馬ケルソを3度にわたり破るなどの快挙を挙げた。 == 経歴 == ジャック・ドレフュスがフロリダ州オカラに開設したホーボーファーム (Hobeau Farm) において、その開設初年度の産駒として生まれた牡馬であった。 ボーパープルは単騎の逃げを得意とし、気持ちよく逃げられれば楽勝し、一方並びかけられると惨敗するという、極端な走りが特徴であった〔Robertson - p.558〕。若駒時代はケンタッキーダービートライアルで勝つなどクラシック路線での活躍も期待されたが、故障により長期休養を余儀なくされる〔Robertson - p.558〕。その後4歳になってようやく復帰を果たし、5歳になって本格化を迎えた。 5歳になった1962年の6月4日、ボーパープルが登録していたサバーバンハンデキャップには、前年の二冠馬キャリーバックと、当時の古馬路線における最強馬ケルソが登録しており、それらがほぼ人気を独占した。しかし4頭立てと少頭数で行われたこの競走で、ボーパープルは軽ハンデを味方につけて颯爽と逃げ切り、2着のケルソに2馬身半差、さらに2分00秒60のトラックレコードで勝つ大金星を挙げた〔Robertson - p.557〕。 以降、ボーパープルはケルソらに明らかに実力で劣るながらも、ハンデキャップの有利を活かして古馬路線の最前線に立ち続けた。しかしその脚質・戦法ゆえに負けるときはあっさり負けてしまい、事実翌戦のモンマスハンデキャップではヒッティングアウェイという馬に競りかけられ、117ポンド(約53.1キログラム)と軽めのハンデキャップだったにもかかわらずケルソ(130ポンド)・キャリーバック(124ポンド)の2頭に先着される3着に敗れた〔Robertson - p.558〕。 それから1週間後のブルックリンハンデキャップではふたたびキャリーバックとの対戦になった。ここでは前走から一転、ヒッティングアウェイらを含むほかの逃げ馬からも逃げ切り、ふたたびキャリーバックを破って優勝、さらにアケダクト競馬場10ハロン(約2012メートル)のトラックレコードも更新した〔Robertson - p.558〕。しかしそれから3週間後のナイターで行われた一般戦ハンデキャップ競走では127ポンド(約57.6キログラム)とそれなりに重い斤量を積まれ、キャリーバック(133ポンド)の圧勝を尻目に4着最下位と惨敗した。 翌戦のウッドワードステークスではひさびさにケルソと対戦、また同年のベルモントステークス勝ち馬ジャイプールも出走していた。このウッドワードステークスは馬齢定量戦であり、ハンデキャップの恩恵を受けられなかったボーパープルは勝ったケルソから19馬身〔Sports Illustrated 1962年11月5日号 〕離された着外へと沈んだ。 このあとにボーパープルはホーソーンゴールドカップに出走、これに勝って同年の最終目標を、当時アメリカ最大の競走であったワシントンDCインターナショナルに設定した。その前哨戦であるマンノウォーステークスにもビル・ボランド騎乗のもとで出走したが、芝競走はこれまで未経験〔Sports Illustrated 1962年11月5日号 〕、12ハロン(約2414メートル)という距離も未経験〔Sports Illustrated 1962年11月5日号 〕とボーパープルにとって不安要素ばかりの競走であった。さらに同競走はこの年よりハンデキャップのない馬齢戦になっており〔Man O'War 〕〔Sports Illustrated 1962年11月5日号 〕、そのうえ出走馬はケルソとキャリーバック、ほかにも古豪ティーヴィーラーク、イギリスからの移籍馬ジアックスなども出走しており、ボーパープルは勝ち目がないと見られて単勝オッズ21.65倍〔Jack Dreyfus and The Story of a Remarkable Medicine. 〕の大穴扱いを受けた。しかしボーパープルはスタートから得意の単騎逃げを打つと、そのまま終始誰にも捕らわれず、ケルソを2馬身抑えて優勝、さらに2分28秒60のトラックレコードまで叩きだす大波乱を巻き起こした〔Robertson - p.559〕〔Sports Illustrated 1962年11月5日号 〕。 この勢いのまま、ボーパープルはワシントンDCインターナショナルに出走したが、道中でケルソとキャリーバックに並びかけられてしまい、ずるずると後退、11着と惨敗を喫した〔Robertson - p.560〕。 翌年1963年、ボーパープルは2月のワイドナーハンデキャップから始動し、ケルソと最後の対戦をした。ケルソより8ポンド軽い125ポンド(約56.7キログラム)を積まれたボーパープルはスタートで躓く不利をうけるが、果敢に先手を取り戻し、追いかけていたケルソから2馬身4分の1差で逃げ切って優勝、ケルソを相手に3度の勝利を手にした〔Robertson - p.573〕。その後同年のサバーバンハンデキャップでもケルソと対戦する予定であったが〔Ocala Star-Banner 1963年7月3日号 〕、調教での具合が思わしくないことを理由に直前に回避している〔Schenectady Gazette 1963年7月4日号 〕。 結局同年で引退、故郷のホーボーファームで種牡馬となったが、種牡馬としてはこれといった大きな成績を挙げることはなかった。 ホーボーファームの競走馬は、ボーパープル以外にも番狂わせを演じた馬が多いことで知られる。著名な例としては、セクレタリアトをホイットニーハンデキャップで破ったオニオン () 、ウッドワードステークスで破ったプルーヴアウト () もまたホーボーファームの競走馬であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボーパープル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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