|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ ラフ : [らふ] 1. (adj,n) rough 2. (adj,n) rough ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
ボールズブラフの戦い(ボールズブラフのたたかい、英:Battle of Ball's Bluff、またはハリソン島の戦い、英:Battle of Harrison’s Island、またはリーズバーグの戦い英:Battle of Leesburg)は、南北戦争の初期、1861年10月21日に、バージニア州ラウドン郡で、北軍ジョージ・マクレラン少将の北バージニアにおける作戦の一部として行われた戦闘である。 その後に続く戦闘と比べると小さな戦いだったが、1861年の東部戦線では2番目に大きな戦闘であり、その後で北軍指揮系統に余波が及び、戦争中のアメリカ合衆国憲法下での三権分立の問題を引き起こした。 == 背景 == この戦闘に先立つこと数週間、マクレランは全北軍の総司令官に昇格し、第一次ブルランの戦いから3ヶ月経ったこのときは、バージニア州への侵攻のためにポトマック軍を造りあげているときだった。 1861年10月19日、マクレランはジョージ・A・マッコール准将にその師団でリーズバーグの12マイル (20 km) 南東にあるバージニア州ドレインズビルに進軍し、南軍のネイサン・G・"シャンクス"・エバンス大佐がリーズバーグを放棄した可能性がある最近の南軍の動きの目的を探らせるように命令した。エバンスは実際に10月16日から17日にかけてリーズバーグを離れたが、自身の判断でそうしていた。南軍のP・G・T・ボーリガード准将がこの動きについて不快を表明し、エバンスは戻った。10月19日の夜、エバンスは町の東、アレクサンドリアからウィンチェスターに繋ぐターンパイク(現代の州道7号線)に防御的陣地を置いた。 マクレランは同じ夜にマッコールと相談するためにドレインズビルに来て、マッコールには翌朝主要宿営地であるラングレーに戻るよう命令した。マッコールはその地域の道路地図を完成させるために暫しの猶予を要請し、その結果、10月21日朝までラングレーに向けて出発しなかった。それはボールズブラフの戦いが始まろうとしている時だった。 10月20日マッコールがその地図製作を完成させる一方で、マクレランはチャールズ・ポメロイ・ストーン准将に南軍がどのように動くかを見極めるためにマクレランが「軽い示威行動」と呼ぶものを行うよう命じた。ストーンは他の部隊がポトマック川沿いに陣取っているエドワーズ渡し場まで部隊を進め、その砲兵隊に南軍がいると思われる陣地を砲撃させ、日が暮れる直前に第1ミネソタ志願歩兵連隊の約100名をバージニア州側の向こう岸に短時間渡らせた。この行動に対してエバンス大佐側からは何の反応も無かったので、ストーンは部隊をその宿営地に呼び戻して、「軽い示威行動」は終わった。 ストーンは続いて第15マサチューセッツ歩兵連隊(ボールズブラフに面したハリソン島に駐屯)のチャールズ・ディブンス大佐に敵の配置について情報を集めるためにそこで川を渡って偵察隊を送るよう命じた。ディブンスはチェイス・フィルブリック大尉と約20名の兵士を派遣しストーンの命令を実行させた。ボールズブラフから内陸1マイル (1.6 km) 近く暗闇の中を進むと経験の足りないフィルブリックは一群の立ち木を南軍宿営地のテントと見誤り、確かめもせずに戻って宿営地の存在を報告した。ストーンは直ちにディブンスに300名ほどを連れて川を渉り、翌朝見通せるだけ明るくなったときに、宿営地を攻撃するよう命じた。その命令に拠れば「現在の陣地に戻ってくること」となっていた。 これがボールズブラフの戦いの始まりだった。その後長く続いた伝統的解釈とは対照的に、マクレランあるいはストーンがリーズバーグを奪取するという作戦から出たことではなかった。最初に川を渡った部隊は小さな偵察隊だった。その後に襲撃隊と目される部隊が続いた〔Morgan, "A Little Short of Boats," Ironclad Publ.Co., 2004, pp. 73-6.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ボールズブラフの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|