|
コンスタンチン・ペトローヴィッチ・ポベドノスツェフ(, ラテン文字転写:Konstantin Petrovich Pobedonostsev, 1827年5月21日 - 1907年3月23日)は、ロシアの法学者、政治家、思想家。一般にロシアにおける保守主義思想家の代表格と見なされる。皇帝アレクサンドル3世、ニコライ2世の傅育に当たり、ロシア正教聖務会院(シノド)長官として、いわば「灰色の枢機卿」として帝政に影響力を与えた。 ロシア正教会を保護する一方で、改革を求める声の高まりに対しては保守的な姿勢を示した。そのため、ロシア正教会から主教・司祭・一般信徒など、広範な範囲から必要性が認識されていた教会の組織面・精神面の改革は大幅に遅れたので、ポベドノスツェフに対する教会側からの評価は高くない〔高橋保行『迫害下のロシア教会』(39頁から60頁)教文館、1996年 ISBN 4-7642-6325-4〕。 == 生涯 == 1827年5月21日、モスクワに生まれる。父ピョートルは、モスクワ大学教授。1846年サンクトペテルブルクの法律学校を卒業する。その後官吏となり、モスクワの元老院事務局に勤務する。 1860年から1865年にかけて、モスクワ大学の法律学教授となり、皇帝アレクサンドル2世の皇子たちに法理論と行政学を教えた。1868年元老院議員に選出され、サンクトペテルブルクに移る。1872年ロシア帝国国家評議会議員。1880年から1905年までロシア正教会聖務会院院長。 ポベドノスツェフは、常に妥協を嫌う保守主義者をもって自認し、市民革命や西欧文明批判などの保守的見解を披瀝した。1881年には、アレクサンドル3世の専制政治強化に関する布告を起草し、アレクサンドル2世の下、自由主義的改革案を提出しようとしていたロリース・メーリコフ内相は辞任を余儀なくされた。 また、聖務会院長として古儀式派(「ラスコーリニキ」及びその訳語である「分離派教徒」は国家教会側からの蔑称)などの異端弾圧に乗り出し、そのため、自由主義者からは、反啓蒙主義者、社会的進歩の敵として非難された。ロシア正教会内から広範に起こっていた改革への動きにも否定的姿勢を示した〔。 1894年アレクサンドル3世崩御後、ニコライ2世が即位する。ニコライ2世の傅育官であったポベドノスツェフは、新皇帝に対しても皇帝の専制権力の護持など、思想面で影響力を維持した。 だが、1890年代の終わり頃から、ニコライ2世が、父帝アレクサンドル3世のフィンランドにおけるロシア化政策とその強化に固執したことや、系統的な宗教迫害を忌避したこと、聖務会院によって支配されていたロシア正教会の部分的な解放を指向したことなどから両者の間に懸隔が生まれ、次第に政治的影響力を失った。 そして、1905年日露戦争の敗北を契機として、第一次ロシア革命が起き十月詔書が出された後、ポベドノスツェフは公職から退いた。1907年3月23日サンクトペテルブルクで死去。80歳に二ヶ月足りなかった。 アンドレイ・ベールイの小説『』(1912年)の登場人物、老元老院議員アブレウコフ(Ableukhov)は、ポベドノスツェフをモデルとしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンスタンチン・ポベドノスツェフ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Konstantin Pobedonostsev 」があります。 スポンサード リンク
|