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ポル・ポト(、1928年5月19日〔Brother Number One, David Chandler, Silkworm Book, 1992 p.7〕 - 1998年4月15日)は、カンボジアの政治家。本名はサロット・サル()だが、ポル・ポトは自身がサロット・サルと同一人物であると公式に認めたことはない〔B.Kiernan, The Pol Pot Regime---Race, Power and Genocide in Cambodia under the Khmer Rouge, 1975-1979(third edition), Yale University Press, 2008, ISBN 978-0-300-14434-5, Preface to the third edition.〕。しかし、サロット・サルの兄弟のうちポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(Roth Suong)は〔B.Kiernan, How Pol Pot Came to Power(second edition), 2004, ISBN 0-300-10262-3, pp.25-27.〕、ポル・ポトがサロット・サルであることを証言している〔井川・武田編著『新版・カンボジア黙示録』田畑書店、p.33.〕。通称は「一の同志」、「コード87」、「バン・ポー(年長者)」などがある〔ラルース世界史人物辞典〕。 民主カンプチア首相、カンボジア共産党第2代書記長を務め、クメール・ルージュの精神的指導者として知られている。 == 生い立ち == サロット・サル(以下ポル・ポト)は、仏領インドシナのプレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国コンポントム州)で生まれ育った。父の名はペン・サロット()、母はソク・ネム()。ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。使用人は雇っておらず、収穫期は村人同士で手伝って作業した。収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だった〔B.Kiernan, ''The Pol Pot Regime(third edition)'' p.6.〕。これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、 その中では中規模の自作農だったという〔B.Kiernan, ''How Pol Pot Came to Power(second edition)'', p.25.〕。ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン()が王宮で働き始めたことから始まるようである。特に、チェンの娘ルク・クン・メアク()が王宮舞踊団の踊り手になり、その後シソワット・モニヴォン王の側室になったことで王宮との関係は強まった〔B.kerinan, ''How Pol Pot Came to Power(second edition)'', p.26.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポル・ポト」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pol Pot 」があります。 スポンサード リンク
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