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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ポンサクレック・ウォンジョンカム〔正しい発音は「ワンジョンカム」だが、英語の綴りのまま日本では「ウォンジョンカム」と発音される〕(、、男性、1977年8月11日 - )は、タイの元プロボクサー、元ムエタイ選手。タイ王国ナコーンラーチャシーマー県出身。第34代・第37代WBC世界フライ級王者。多くの世界王者を輩出したウィラット・ワチララタナウォン()がプロモーター兼会長を務め、ピヤラット・ワチララタナウォン()がプロモーターを務めるペッインディー所属。本名はポンサコン・ウォンジョンカム(พงศกร วันจงคำ)。ニックネームは本名の最後の1音節のコンまたはゴン〔タイ語の無気音のKはGに近く聞こえるため、日本での片仮名表記においてGで表される場合もある。〕。ポンサクレック・クラティンデーンジムまたはポンサクレック・シンワンチャーとも。 ポンサクレックは第34代WBC世界フライ級王者時代の2006年6月30日、エベラルド・モラレス(メキシコ)に4回TKO勝ちで15度目の防衛に成功したことにより、ミゲル・カント(メキシコ)の持つ世界フライ級王座における連続防衛記録を更新した。第34代王座は17度、第37代王座は4度(暫定王座も含めると6度)の防衛に成功した。また日本のリングにも数多く登場し(浅井、内藤、本田、中沼、小松、中広、清水、升田、亀田、粉川)など早々たるメンバーを相手に勝利を挙げており、ポンサクレックの世界戦における日本人戦績は14戦11勝1敗2引き分けと抜群の強さを誇りフライ級に長らく日本人キラーとして名を馳せていた。 == 来歴 == 幼少の頃からムエタイをはじめる。あまり良い戦績は残せなかったが(42戦28勝13敗1分)パンチで勝利した試合が多かったことで、プロモーターの勧めでボクシングへ転向した。 1994年12月21日、ベルナルド・ダバロス(フィリピン)を相手にプロデビュー戦を行い、2回KO勝ちする。 ポンサクレックはそこからデビュー以来7連続KOと快進撃を続けていたが1995年2月22日、ジェリー・パハヤハイに判定負けを喫しプロ入り初黒星となった。パハヤハイはこの時の戦績では24勝18敗1分と勝ち負けを繰り返すボクサーではポンサクレックにとっては、まさかの伏兵相手に敗れるという結果となった。その後、二つのKO勝ちを追加し1996年7月11日、パハヤハイと再戦。ポンサクレックとは逆に2敗を追加した比国人は戦績では25勝20敗2分となっておりタイ国民からは雪辱が期待されたがまさかの5回KO負けとなった。 1997年3月28日、地元タイにてムズキシ・シカリ(南アフリカ)の持つWBU世界ライトフライ級王座に挑戦。初回TKO勝ちを収めて王座の獲得に成功。その後、防衛戦を行わず王座を返上した。 1998年2月27日、地元タイのサムイ島でパハヤハイと三度目の対戦、10回判定勝ちを収めかつての雪辱を晴らすとともに3度目の正直を果たした。パハヤハイはその後もリングに上がり続け日本のリングにも9度登場し1勝8敗。デンカオセーン・カオウィチット戦を最後にリングに上がっておらす生涯戦績を38勝(14KO)55敗2分とした〔世界王者ポンサクを倒した男”バハヤハイ” BOXING MASTER/ボクシング マスター 2007年6月10日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポンサクレック・ウォンジョンカム」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Pongsaklek Wonjongkam 」があります。 スポンサード リンク
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