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ポンティアック・GTO : ウィキペディア日本語版
ポンティアック・GTO

ポンティアック・GTO(英:''Pontiac GTO'' )は、1964年から1974年までポンティアック2004年から2006年までオーストラリアゼネラルモータースホールデンによって製造された自動車である。
== 概要 ==
GTOは1960年代から1970年代においての革新的な、そして現代の視点からは古典的なマッスルカーの代表例としてしばしば捉えられる。また、日本においてはマッスルカーというカテゴリーを成立された第一世代のアメリカ車としても認知されている。GTOのうち、1964年から1973年5月まで販売されたモデルはポンティアック・テンペストポンティアック・ル・マン(:en:Pontiac_LeMans)と密接な関連があった。しかし、最終年度である1974年モデルのみはポンティアック・ヴェンチュラ(:en:Pontiac Ventura)をベースとしていた。
21世紀オーストラリアホールデンより発売されたGTOは、基本的にはホールデン・コモドアクーペ版であるホールデン・モナーロ(:en:Holden Monaro)をベースとしている。
最初のGTOはポンティアックのエンジニアであるラッセル・ギー、エンジン・スペシャリストのビル・コリンズ、チーフ・エンジニアのジョン・ザッカリー・デローリアン(:en:John_DeLorean)によって開発された。シェーン・ワイザーは、GTOの開発を思いついた最初の人物であった。1963年前半、GMの経営陣は傘下の関連部門が自動車レース(:en:Auto racing)に関与する事を禁止する命令を出した。しかし、当時のポンティアックの広告とマーケティング部門は自身の自動車の性能をアピールする事を重視し、レースはその戦略上重要な構成要素と捉えていた。当時、ポンティアックのチーフマーケティングマネージャーとして全米各州での広告・広報活動に当たっていたジム・ワンガースは、自伝"Glory Days,"においてGTOの開発責任が確かにギー、コリンズ、デローリアンの3名にあった事を証言している。そして、GTOの性能イメージをより強調するために、ストリートでのパフォーマンスの向上に注力すべきであると提案した。
そのため、GTOのシャーシはかつてデローリアンが考案したフロント縦置きエンジンにロープドライブとリアトランスアクスルを組み合わせた独特の構成から、従来のフロントにエンジンとトランスミッションを置き、リアアクスルには差動装置のみを配する普遍的なFRレイアウトに回帰した1964年型ポンティアック・テンペストがベースとされ、エンジンはテンペストのV8-326立方インチ(5.3L)の標準エンジン(:en:Pontiac_V8_engine)から、フルサイズポンティアック・カタリーナ(:en:Pontiac_Catalina)やポンティアック・ボンネビル(:en:Pontiac_Bonneville)用の389立方インチV8エンジン(6.4L)に換装する事で、スーパー・テンペストを指向させる事となった。GTOをテンペストの特別な高性能モデルとして販売促進することによって、ポンティアックはスピードに興味のある若者の市場〔こうした市場は同時期にフォード・モーターリー・アイアコッカにもよっても認識されており、彼の指揮の下でフォード・マスタングが開発された。〕に強い訴求力を発揮できた。
GTOの名称はデローリアンの発案であり、当時非常に成功したレース車両であるフェラーリ・250GTOの影響を受けた。すなわち、イタリア語におけるGran Turismo Omologato(GTクラスで競争するためのホモロゲーション)の頭字語でもある。その名称は、250GTOを信奉に近い感情で見ていたフェラーリの純粋主義者からは「250GTOに対する冒涜に近い行為である」と抗議を受けた。
GTOはシャーシのプラットフォームとしてはGM A-ボディ(:en:GM A platform (RWD))ベースの中型車(:en:Mid-size car)であり、このサイズのボディに6.4Lもの大排気量エンジンを搭載する事は、中型車の最大排気量を330立方インチ(5.4L)に制限している当時のGMの方針に違反するものであった。しかし、当時はGTOそのものがテンペストやル・マンのオプションパッケージであり、標準的な装備を持たない特別車両と捉えられていた事から、開発陣は基本方針には違反していないものと判断した。ポンティアックのゼネラルマネージャーエリオット・ピート・エステス(:en:Pete Estes)はこの新型車を承認した。しかし、GMの基本方針を堅持する事を主張する販売マネージャーのフランク・ブリッジは、GTOを飽くまでも例外的な特別限定車として捉え、総生産台数は5,000台に制限すると言って譲らなかった。GTOが商業的に失敗であったならば、エステスは非難されたであろうが、結果としてそれは大成功を収めた。
その後1969年に最初のフルモデルチェンジを受け二代目へ移行、1973年にはGM A-ボディの世代交代により大きなスタイルの変化(実質的な三代目へのフルモデルチェンジ)を受けた。この頃には自動車保険上もマッスルカーには極めて風当たりの強い時代となっており、売り上げは低迷。起死回生策として1974年には小型車のカテゴリーであるGM X-ボディ(:en:GM X platform)への転換を模索するが、これは結果的に大失敗に終わり、北米ポンティアックとしてのGTOの歴史は一旦幕を下ろす事になった。
なお、かつて日本国内で発売された三菱・ギャランGTO三菱・GTOは、Gran Turismo Omologatoの頭字語を持つという意味ではポンティアック・GTOと共通しているが、それ以外には直接的な関係は無い。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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