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ポンティニー (Pontigny)は、フランス、ブルゴーニュ地域圏、ヨンヌ県のコミューン。 ==歴史== 晴朗なポンティニーは、7つの封建的荘園(オセール伯領、トネール伯領、シャンパーニュ伯領、オセール司教領、サンス司教領、ラングル司教領、そしてポンティニー修道院領)が交差する場所だった〔''Le pont des sept frontières'' ( Pontigny XII e - Moyen Age ) . André Ségaud, ''Chroniques des pays de l’Yonne'', Editions de l’Yonne Républicaine. 2000.〕。 最初の入植は1114年に遡る。修道院をつくるため、ヴェヌーズ教区に含まれるセラン川の岸を人が住めるようにしたのはシトー会修道士たちだった(ポンティニーとは川の上につくられた橋の名である)。イングランド王ジョン欠地王に対して反乱を起こしたイングランド貴族らがマグナ・カルタを起草したという伝説が、この修道院に伝わっている。 1240年以降、多くの巡礼者たちが、ポンティニー修道院に埋葬された聖エドム(英語名:聖エドマンド・リッチ。カンタベリー大司教)の聖遺物に巡礼するようになった。1285年以降、修道院を取り巻く壁沿いに木造の住宅が並んだ。これがポンティニーに移住した最初の在俗者らの居住区であった。 諸侯たちや高位聖職者たちの間で紛争が起きると、戦うか破門するかでなく、交渉のため他方に赴くことが認められなかった。ポンティニーの橋のアーチ中央部をそれぞれが自分たちの家とみなしたので、協定を結ぶ際や署名のたびごとに集まった。こうした重要な機会にはセラン川の中心部にテーブルが設置され、3人の伯爵たち、司教たち、そして修道院長が自分たちの地域の仕事を正餐の場に持ち込み解決していた。 1549年、地元では質の良い粘土がとれ、タイルおよびテラコッタタイルが製造されていた。製粉所で水力が生み出された(1746年当時は縮充機)。 フランス革命時代、ポンティニーからヴェヌーズ集落が分離してコミューンとなった。ポンティニー修道院は閉鎖され、修道士たちは追放された。建物は廃止され、住民たちによって住宅資材に使われた。教会は破壊を逃れて教区教会にされた。1848年から1903年まで、ジャン・バティスト・ミュアール神父が設立したサンテドム会の修道士たちが、修道院の遺構とその土地を所有していた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポンティニー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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