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ポーラ・ネグリ(Pola Negri、1897年1月3日 - 1987年8月1日)は、ポーランド出身の女優である。本名バルバラ・アポロニア・ハウピェツ(Barbara Apollonia Chałupiec)。サイレント映画時代に活動し、妖艶なヴァンプ(悪女)役で大スターとなった。 == 来歴 == バレエ・ダンサーになる訓練を受けていたが病気が元で挫折、演技の道に進む。第一次世界大戦の終わり頃までには、ワルシャワで人気舞台女優となっていた。 ポーランドで人気女優となった彼女はドイツのベルリンに移り、エルンスト・ルビッチの映画作品に出演。彼らの作品は世界中で成功し、1922年にはハリウッドに招かれることになった。1920年代には、彼女のエキゾチックでグラマラスな容姿は人気を博し、また、チャールズ・チャップリンとの婚約やルドルフ・ヴァレンティノとのロマンスも話題になった。 特に1926年、ヴァレンティノが亡くなった後の彼女の振る舞いはメディアの注目となった。彼女はヴァレンティノと結婚する約束をしていたと明かし、彼の棺が列車でニューヨークからロサンゼルスまで運ばれるのについてゆき、列車が止まる度に写真家のためにポーズを取った。葬式では何度も失神、彼女の名前が綴られた大きなフラワー・アレンジメントをヴァレンティノの墓の上に置くように用意した。しかし多くのヴァレンティノの友人は、二人は結婚する予定などなかったと主張し、彼女の振る舞いは単なる売名行為だと非難した。その頃から彼女のキャリアは下降しはじめる。彼女の強いポーランド訛りの英語は大衆に受け入れられず、当たり役であった悪女役は流行遅れとなっていった。 ネグリは1927年にグルジアの王子だと主張する軍人と結婚した。しかしながら流産及び夫が彼女の財産を投機資金に流用し、1929年の株の大暴落で大損し、離婚に至る。 トーキー移行後、1932年にRKOの''A Woman Commands''に主演。映画は成功しなかったが彼女が歌った劇中歌「Paradise」がヒットし、歌手として全米で興業を行った。 1934年以降はヨーロッパに戻り、フランスに住み、ドイツ映画に出演。1939年、ヒトラーが侵攻してきたフランスを去り、アメリカに戻った。数本の映画や劇場に出演。 戦後、ビリー・ワイルダーは『サンセット大通り』の主演を彼女に持ちかけたが、「落ちぶれた往年の大女優」という役柄に難色を示し、断った(結局、その役を演じたのは、往年の彼女のライバルであったグロリア・スワンソンで、大成功を収めた上に、女優の第一線に返り咲くこととなった)。ワイルダーは後年、ネグリなどをモチーフとした『悲愁 - Fedora』(1979年)を作っている。 1951年にはアメリカの市民権を取得。1964年の『クレタの風車』が最後の作品。親友である石油長者の相続人の女性の誘いでテキサス州サンアントニオへ移住、1987年に同地で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポーラ・ネグリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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