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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
"プレシャス" ポール・エラリング("Precious" Paul Ellering、1953年8月22日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー、マネージャー。ミネソタ州メルローズ出身。 現役選手時代はスーパースター・ビリー・グラハム系の筋肉美を誇るヒールとして活躍。引退後はロード・ウォリアーズのマネージャーとなって名を馳せた。 == 来歴 == AWAのバーン・ガニアのもとでトレーニングを積み、1978年にプロレスラーとしてデビュー。ベビーフェイスのポジションで同タイプのジェシー・ベンチュラと抗争し、スティーブ・オルソノスキーと組んでベンチュラ&アドリアン・アドニスのイースト・ウエスト・コネクションが保持していたAWA世界タッグ王座にも挑戦した。 その後、ヒールに転向してテネシー州メンフィスのCWAに参戦。1980年3月11日にシーク・アリ・ハッサンと組んでビル・ロビンソン&ケン・ルーカスからAWA南部タッグ王座を、同年4月7日にはジミー・バリアントからAWA南部ヘビー級王座を奪取している。CWAではジミー・ハートをマネージャーに、テネシーの帝王ジェリー・ローラーをはじめ、ビル・ダンディー、ソニー・キング、リッキー・モートン、トミー・リッチらと抗争を展開した。 当時の日本ではリッキー・スティムボートやポール・オーンドーフなどと共に「まだ見ぬ強豪」の一人として注目され、1981年に国際プロレスに待望の初来日を果たす。5月4日に札幌中島スポーツセンターで行われた、当時病気療養中だったアニマル浜口の王座返上で空位となっていたIWA世界タッグ王座決定戦において、テリー・ラザンとのコンビでラッシャー木村&マイティ井上に勝利、第24代のチャンピオン・チームとなる。その後、5月13日に岩手県一関市にて井上&阿修羅・原を相手にタイトルを防衛、5月16日の後楽園ホールでの金網デスマッチで最終的には井上&原に王座を奪われるも、期待に違わぬ活躍を見せた。 1982年、内臓疾患のためフルタイムのレスラー活動から離れるが、そのマイクパフォーマンスの巧みさをオレイ・アンダーソンに見込まれ、ジム・バーネット主宰のNWAジョージア地区でプレイング・マネージャーに転身。バズ・ソイヤー、ジェイク・ロバーツ、アーン・アンダーソン、キングコング・バンディらを配下に悪の軍団、リージョン・オブ・ドゥームを組織する。1983年には、同じくエディ・シャーキーを師に持つロード・ウォリアーズと合体、後に「リージョン・オブ・ドゥーム=LOD」のユニット名はウォリアーズの別名義となった。 ウォリアーズが注目を集めるようになると、彼らの専任マネージャーとなって古巣のAWAと契約。1984年8月25日、ラスベガスでクラッシャー・リソワスキー&バロン・フォン・ラシクからAWA世界タッグ王座を奪取させる。以降もウォリアーズと共に全日本プロレス、NWA、WCW、WWFで活躍、1980年代を代表するタッグチームのマネージャーとして、プロレス史にその名を残した。すでに現役を退いていたものの、ホーク&アニマルのパートナーとなって時折6人タッグマッチに出場したこともある。 1992年のウォリアーズ(LOD)解散後はプロレス業界から離れていたが、再結成後の1998年にLODと敵対する立場となってWWFに登場。バイカー軍団ディサイプルズ・オブ・アポカリプス(DOA)のマネージャーとなり、LODと抗争を繰り広げた。その後はイヌぞりレーサーとして活動(DOAのマネージャー時も、レース用のゴーグルをトレードマークとして装着していた)。 2011年、ロード・ウォリアーズと共にWWE殿堂に迎えられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・エラリング」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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