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ポール・ドラローシュ (Paul Delaroche, 1797年7月17日 - 1856年11月4日)は、フランスの画家。本名はイッポリト・ド・ラ・ローシュ(Hippolyte De La Roche)。日本では''ドラロッシュ''、''ドラロシュ''とも表記される。 ==生涯== 1797年、パリに生まれる。父は美術鑑定家、兄はアントワーヌ=ジャン・グロ門下で絵画を学んだ後、自身も鑑定家となった。1816年、パリ国立美術学校に入学、はじめルイ=エティエンヌ・ヴァトレ、ついで兄の師グロのもとで絵画修行を積む。 初のサロン(官展)出品作は1822年の『ヨアシュを救うエホシェバ』と『キリストの十字架降下』。このときのサロンでジェリコー、ドラクロワと知り合い、親交を結ぶ。ドラローシュ、ジェリコー、ドラクロワの3名は当時パリで活動していた数多くの歴史画家たちのなかでも中核的存在となる。 1824年のサロンに『ジャンヌ・ダルク』ほかを出品、注目を集める。 義父オラース・ヴェルネが在ローマ・フランス・アカデミー総監を務めていた1838年と1843年の2度、イタリアを訪問。 1832年、35歳の若さで美術アカデミー会員に選出される。翌1833年には国立美術学校教授となるが、1843年、教え子たちが新入生に対して行ったしごきで一人が死亡、アトリエ閉鎖・辞任を余儀なくされる。 ドラローシュはオラース・ヴェルネの下の娘ルイーズを情熱的に愛した。1835年、彼はルイーズの頭部を元にした『天使の頭部』を出展している。ルイーズは1845年に亡くなるが、彼はこの衝撃から二度と回復できなかったと言われている。妻の死後、彼は『キリストの受難』の小さな連作を制作した。 ドラローシュは理想によって悩むことはなく、それを気取ることもなかった。しかし厳しい製作は彼と彼の中心思想との間に何の神秘も介在することを許さなかった。制作は常に大衆に対してわかりやすく、カンヴァス上で詩人になろうとし苦しみ画家たちが全て精力を消耗することから、彼が逃げたせいであった。キリスト教信仰の創始者、彼と同時代を生きたナポレオン・ボナパルトのような人物、遠い歴史上の人物を描くことで本質的には同じ手法が彼により用いられた。『フォンテーヌブローのナポレオン』、『セント・ヘレナ島のナポレオン』、『死刑宣告の後法廷を発つマリー・アントワネット』などである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・ドラローシュ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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