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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ポール・ハンリー(Paul Hanley, 1977年11月12日 - )は、オーストラリア・メルボルン出身の男子プロテニス選手。フルネームは ''Paul Jason Hanley'' (ポール・ジェイソン・ハンリー)といい、「ハンドルズ」(Handles)という愛称で呼ばれている。2005年のウィンブルドンと2011年の全豪オープン混合ダブルスで準優勝した。サービスとフォアハンド・ストロークを武器にした選手。身長183cm、体重76kg、右利き。 == 来歴 == ハンリーは普段からダブルスのスペシャリストとして活動し、4大大会の男子シングルスには1度も出場記録がない。ATPツアーでダブルス26勝を挙げた。ダブルスの自己最高ランキングは5位。彼が息を合わせてきたダブルス・パートナーには、ウェイン・アーサーズ(同じオーストラリアの選手)やケビン・ウリエット(ジンバブエ)などがいる。 ハンリーは両親がテニス・センターの経営者という家庭に生まれ育ち、早くからテニスに親しんだ。1997年に20歳でプロ転向。2001年からダブルスのスペシャリストとして頭角を現し始め、7月初頭のポーランド・ソポト大会でネイサン・ヒーリー(同じオーストラリアの選手)と組んで男子ツアー大会初優勝を果たす。この年はヒーリーとのコンビで、日本のジャパン・オープン男子ダブルス準優勝もあり、ハンリーとヒーリーは決勝戦でリック・リーチ(アメリカ)&デビッド・マクファーソン(オーストラリア)組に 6-1, 6-7, 6-7 の逆転で敗れた(第2・第3セットは連続でタイブレークを落とした)。2002年までは男子ツアー下部大会(最下層の「フューチャーズ」)でシングルス戦にも出場していたが、2003年以後は活動をダブルスのみに絞るようになる。 2002年の全仏オープン男子ダブルスで、ポール・ハンリーは同じオーストラリアのウェイン・アーサーズと組んでベスト8に入った。しばらく様々な選手たちとのコンビネーションを試したが、2003年春から大半の試合でアーサーズと組むようになり、彼との組み合わせで2003年ローマ・マスターズ(赤土コート、全仏オープン前哨戦の1つ)に優勝し、初めてのビッグタイトルを獲得する。ハンリーとアーサーズは、2003年全仏オープンと2004年ウィンブルドンで男子ダブルスのベスト4に入った。2005年のウィンブルドンで、ハンリーはタチアナ・ペレビニス(ウクライナ)と混合ダブルスのペアを組んだ。2人は決勝戦でマヘシュ・ブパシ(インド)&マリー・ピエルス(フランス)組に 4-6, 2-6 のストレートで敗れ、ウィンブルドン優勝のチャンスを逃した。2005年の男子ツアー年間最終戦テニス・マスターズ・カップの予選敗退を最後に、ハンリーとアーサーズはペアを解消した。 アーサーズとのコンビ解消後、ハンリーは2年間ジンバブエのケビン・ウリエットとコンビを組んだ。ハンリーとウリエットの組は、2006年・2007年の2年連続で全豪オープンと全米オープンの男子ダブルス4強に入ったが、4度とも決勝進出のチャンスを生かせなかった。2006年から、ハンリーは男子テニス国別対抗戦・デビスカップのオーストラリア代表選手を務め、これまでに8勝4敗(シングルス0勝2敗・ダブルス8勝2敗)の成績を挙げている。 ハンリーは2009年と2010年はシーモン・アスペリン(スウェーデン)と2011年からはルーカス・ドロウヒー(チェコ)やジェイミー・マレー(イギリス)、エリック・ブトラック(アメリカ)らとペアを組んでいる。2011年全豪オープンの混合ダブルスでは詹詠然(台湾)とペアを組んで決勝に進出した。決勝ではダニエル・ネスター(カナダ)&カタリナ・スレボトニク(スロベニア)組に 3–6, 6–3, で敗れ準優勝となった。 ハンリーは2014年7月のクロアチア・オープンが最後の出場になり36歳で現役を引退した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・ハンリー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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