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ポール・バション : ミニ英和和英辞書
ポール・バション[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ポール・バション ( リダイレクト:ブッチャー・バション ) : ウィキペディア日本語版
ブッチャー・バション[ちょうおん]

ブッチャー・バションButcher Vachon)のリングネームで知られるポール・バションPaul Vachon1938年5月14日 - )は、カナダの元プロレスラーケベック州モントリオール出身のフランス系カナダ人
WWE殿堂者であるマッドドッグ・バションの実弟。娘のルナ・バション、妹のビビアン・バションも元プロレスラーである。
レスリングの強豪で喧嘩も滅法強かったマッドドッグ・バションと比べ実績面では劣るものの〔『プロレスアルバム16 THE HEEL』P4(1981年、恒文社)〕、小柄な兄とは対照的な巨漢のパワーファイターとして活躍した。ハングマンズ・ホールドを日本で初公開した選手でもある。
== 来歴 ==
1957年のデビュー後は、ロシア人ギミックヒールニキタ・ゾロトフ(''Nikita Zolotoff'')に扮してアメリカ合衆国テキサス地区で活動。1959年よりカナダカルガリー地区に進出し、ポール "ザ・ブッチャー" バション(''Paul "The Butcher" Vachon'')を名乗って兄のモーリス "マッドドッグ" バションタッグチームを結成する。1960年代からはテキサス、ジョージアノースカロライナなどアメリカ南部を席巻、モーリスとの極悪兄弟コンビで各地のタッグ・タイトルを奪取した〔。1967年4月には単独で日本プロレスに来日し、第9回ワールドリーグ戦に出場。ダン・ミラーと組んで吉村道明&大木金太郎アジアタッグ王座にも挑戦した。帰国後はジョージアに定着し、1968年の末までスタン・バション(スタン・プラスキー)とのコンビで活動した。
1969年よりAWAに参戦し、再びモーリスと合体。ディック・ザ・ブルーザー&クラッシャー・リソワスキーの極道コンビと抗争を繰り広げ、同年8月30日にシカゴにてAWA世界タッグ王座を奪取した。以降、バーン・ガニア&クラッシャー、ウイルバー・スナイダー&エドワード・カーペンティアボボ・ブラジル&アーニー・ラッドなどのチームを相手に防衛を重ね、1971年2月にはAWA世界タッグ王者チームとして国際プロレスに来日、グレート草津&サンダー杉山の挑戦を2度にわたって退けた〔『忘れじの国際プロレス』P103(2014年、ベースボール・マガジン社、ISBN 4583620802)〕。同年5月の王座陥落後もAWAを主戦場にしつつ、モーリスと共に主宰していた地元ケベックのグランプリ・レスリングやオンタリオ地区などカナダ各地でも活動。ポール&ジョー・ルダックハリウッド・ブロンズと抗争し、ダスティ・ローデスディック・マードックテキサス・アウトローズとも対戦した〔。
1973年にモーリスとのコンビを解消。1974年1月にはビル・ワットらと共に国際プロレスに再来日している。1975年ニューヨークWWWFに登場、ブルーノ・サンマルチノWWWF世界ヘビー級王座に挑戦し、7月12日のMSG定期戦ではアンドレ・ザ・ジャイアントとのシングルマッチも組まれた。1976年4月には新日本プロレスに初参加し、第3回ワールド大リーグ戦に出場したが、中堅クラスの星野勘太郎木戸修に白星を献上するなど戦績は振るわなかった(キラー・カール・クラップの乱入もあって優勝者の坂口征二からはリングアウト勝ちを拾っている)。以降はロサンゼルスフロリダを転戦し、1978年のWWWF参戦を最後にしばらくリングから離れた。
1983年下期より、全米進出を目前に控えていたWWFに復帰。ジミー・スヌーカサージェント・スロータートニー・アトラスなどベビーフェイス勢のジョバーを務め、1984年8月25日のMSG定期戦ではファビュラス・フリーバーズとも対戦した。なお、1984年にはマッドドッグ・バションもベビーフェイスとしてWWFに参戦している。ポールがヒールのポジションだったため兄弟タッグ再結成は実現しなかったものの、USAネットワークの番組 "Tuesday Night Titans" にてポールのフィクションの結婚式が執り行われ、モーリスの列席のもとビンス・マクマホンが式の司会を務めるなどの寸劇が展開された(フレッド・ブラッシールー・アルバーノデビッド・シュルツジェシー・ベンチュラジョージ・スティールらゲストの悪ノリにより、セレモニーやレセプションは滅茶苦茶にされている)。これはWWEにおける初のウエディング・スキットであり、1980年代に発売されたビデオソフトにも収録されていたため、近年でも動画サイトなどで映像を確認することができる。
現役引退後の1985年10月、ケベックのグランプリ・レスリング以来の旧友大剛鉄之助の仲介により、ジャイアント・グスタブなるモントリオール出身の巨漢選手のマネージャーとして9年半ぶりに新日本プロレスに来日。アントニオ猪木への挑戦をアピールしたが、猪木対グスタブ戦は実現しなかった〔『新日本プロレス 来日外国人選手 PERFECTカタログ』P58(2002年、日本スポーツ出版社)〕。翌1986年にも旗揚げされたばかりのジャパン女子プロレスに、娘のルナ・バションのマネージャーとして来日した。
1993年結腸癌と診断され、結腸の半分を除去。2003年にも咽頭癌を患い放射線療法を施したが、その結果、2009年に顎の矯正手術を受けている。闘病生活を続ける一方で、2003年には自著 ''"When Wrestling Was Real"'' を自費出版した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ブッチャー・バション」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Paul Vachon 」があります。




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