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ポール・パヴィオ(Paul Paviot、1926年3月11日 パリ - )は、フランスの脚本家、映画監督、スチルカメラマンである。 == 来歴・人物 == 1926年3月11日、フランス・パリに生まれる。 1947年、21歳のときに、スチルカメラマンとして映画界に入る。1951年、25歳にして製作会社「パヴォクス・フィルム」を設立、自社作品第一作としてアンドレ・アンリシュ監督による22分の短篇映画『''Terreur en Oklahoma''』を製作、みずからがイヴ・ロベールによる原案を、ルイ・サパン、アルベール・ヴィダリと共同で脚本に書き、助監督もつとめた。アンリッシュはのちにクリス・マルケル監督の『ラ・ジュテ』(1962年)に出演している。 翌1952年、俳優のマルセル・マルソーの製作会社「レ・フィルム・マルソー」の出資を得、共同製作の短篇映画『''Torticola contre Frankensberg''』で映画監督としてデビューする。主演はミシェル・ピコリ、音楽はジョゼフ・コスマ、美術はアレクサンドル・トローネル。同年、短篇ドキュメンタリー『''Saint-Tropez, devoir de vacances''』を小説家のボリス・ヴィアンとの共同脚本で撮る。同作で撮影監督ギスラン・クロケが撮影監督として一本立ちした。 1954年にマルセル・マルソーを主演に2本の短編映画を撮る。2本目の『マルセル・マルソオのパントマイム』は詩人で映画作家のジャン・コクトーの出演と序文を得、第5回ベルリン国際映画祭に出品されて銅賞の楯を得た。コクトーの序文は、1957年の短編映画『ジャンゴ・ラインハルト』でも得ている。これらは日本でも公開された。 総じて短篇を得意とする監督であったが、1960年代にわずか2本の長篇を残して、同後半からはテレビの世界に入った。特筆すべきは、1968年の西ドイツ・日本・フランス・カナダの4か国合作のテレビシリーズ『''Polizeifunk ruft''』の第6話を撮っていることだ。日本からは東京放送が参加し、第2話を飯島敏宏監督が脚本佐々木守、音楽冨田勲、主演二谷英明で撮っている〔日本でのタイトル、放映の有無については不明である。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・パヴィオ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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