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ポール・モーリア(Paul Mauriat、1925年3月4日 - 2006年11月3日)は、フランスの作曲家、編曲家、指揮者、ピアニスト、チェンバロ奏者。特に日本では「ラブ・サウンドの王様」と呼ばれ、イージーリスニング界の第一人者として有名。 ==人物== ===経歴=== * フランス南部マルセイユで郵便局員の父ヴィクトール、母クローディアとの間に4人兄弟の末っ子として生まれる。6歳でアマチュア音楽家でもあった父親からピアノを習い、10歳でマルセイユ地方音楽院〔1970年代半ばまではレコード解説文やテレビ番組などで「パリ音楽院出身」と誤って紹介されることが多かった。〕 に入学。ソルフェージュ(1939年)とピアノ(1940年)をともに首席で修了して1941年に卒業。その後、アマチュアジャズバンドを経て、1943年にマルセイユのダンスホール「ブラッスリー・ラ・クーポール」専属オーケストラでピアニスト兼アレンジャーとしてプロ・デビューし、翌年には同楽団の指揮者を兼任する。 * 1948年、ギタリストのマルセル・ビアンキ〔1975年、『エマニエル夫人』などの演奏にスティール・ギタリストとして起用された後、アルバム『ポール・モーリア・プロデュースによるラブ・サウンズへの新しき挑戦 オンリー・ユー,幸せの黄色いリボン』(FDX-170)を発表、同年の来日公演にもゲスト出演している。〕 が率いるオーケストラに創設メンバーとして加入、同年12月から9ヶ月間に亘るエジプト・ツアーに参加する。 * 1951年にパリ進出。近郊のダンスホールで演奏していたフランク・プゥルセル楽団にピアニストとして参加するが、翌年帰郷し、同7月28日にイレーヌ・ボボと結婚〔二人の間に子供は生まれなかった。〕。ダンスホール「ル・ヴァンピング」〔1970年代にはディスコ「レアル」として営業が続けられていたことが「イージーリスニングの本」(参考文献の項を参照)の記事より確認できる。〕 でのオーケストラ活動が評判となり、1957年にRGM〔Records Gilbert Montels〕 レーベルからレコードデビュー。 * 1959年に再度パリへ進出し、音楽プロデューサーであるレオ・ミシールに誘われてバークレー傘下で新進アーティストを扱う新興レーベル「BEL AIR」に移籍〔初年度のみエドゥアルド・リュオ(Eduardo Ruo)、リチャード・オードリー(Richard Audrey)の変名を使用、1960年以降はポール・モーリア名義でリリースしている。なおWikipedia英語サイトではこのほか同レーベル在籍中にNico Papadopoulos、Willy Twist名義で発表している旨の記述がある。〕。また、多忙となったプゥルセルに代わってグロリア・ラッソのためにポール・フェルサンの変名を使って編曲・伴奏する一方、シャルル・アズナヴールに対して120曲を超えるアレンジを提供、1960年12月のアランブラ劇場公演などでオーケストラの指揮をとる。さらに、ミレイユ・マチューのデビュー曲『愛の信条』を作曲し、専任オーケストレーターとして1966年9月のオランピア劇場公演などで指揮をとり、フランシス・レイらとともに全米プロモーションツアーにも同行している。このほか、モーリス・シュヴァリエの新作レコーディングを機に、同じバークレー社の同僚であったレイモン・ルフェーヴルと1962年から3年間に亘って仕事を共にしている〔後に、モーリアがフィリップスに移籍した直後に発表したロシア民謡アルバム『赤いサラファン/永遠なるロシア〜ポール・モーリア・ストリングス・ムード』(SFX-7052)でも、ルフェーヴルがレコーディングをサポートしている。〕。 * 1965年、BEL AIRとの契約満了後にポール・モーリア・グランド・オーケストラ (LE GRAND ORCHESTRE DE PAUL MAURIAT) としてフィリップスレコードと契約。1968年に『恋はみずいろ』が全米ヒットチャートで連続5週トップを記録したのを機に世界的にヒット(約500万枚)、RIAAゴールドディスク、ACCディスク大賞などを受賞する。この年、モーリアは全米でのプロモーションのために単身渡米し、テレビ番組「エド・サリヴァン・ショー」などに出演。1969年以降、北米を中心にコンサート・ツアーを開催するが、オーケストラ・メンバーに対するフランス人奏者の人数制限やプロモーターに対する不信などから、3度目となる1971年を最後に全米ツアーを打ち切る。 * 『恋はみずいろ』以降も、フランス語圏や英語圏のヒット・ポップスや映画音楽を中心にレコーディングを続けるが、1970年代半ばから1980年代前半にかけてブラジル音楽に傾倒。1977年にはアシスタントのジェラール・ガンビュスらとリオデジャネイロに渡り、現地ミュージシャンを起用したアルバム『夜明けのカーニバル/ポール・モーリア・ラブ・サウンズの熱い風』(FDX-340)を制作〔本国などでは『BRASIL EXCLUSIVAMENTE』のタイトルでシリーズ化され、3枚のアルバムが発表されている。〕。また1978年には自らフュージョンをコンセプトとしたアルバムを企画、ニューヨーク・パワーステーション・スタジオでウィル・リー、ランディー・ブレッカー、マイケル・ブレッカー等を起用したオリジナル・アルバム『オーバーシーズ・コール/ポール・モーリア・イン・ニューヨーク』(FDX-390)を制作する。さらに、1980年代半ばにはクラシック音楽を取り上げたアルバムを3年連続で制作、原題を『''CLASSICS IN THE AIR'' 』に統一したシリーズ作品として発表、日本でも『愛の夢/ポール・モーリア・クラシック・ヒッツ』(1985年・28PP-102)、『G線上のアリア/ポール・モーリア・クラシック・ヒッツ』(1986年・28PP-111)、『プリマヴェーラの微笑〜ポール・モーリア・クラシック・アヴェニュー』(1987年・28PP-134)として発表されている。 * 1992年、フランス文化省より芸術文化勲章「オフィシエ・デ・ザール」〔Officier des Arts。出典:『CHAGE and ASKA コレクション/ポール・モーリア』(PCCY-00564)解説。〕 を、1997年には同「コマンドゥール・デ・ザール」〔Commandeur des Arts。出典:英語サイト〕 を受賞しているほか、生前の最終公演地となった大阪市ではコンサートに先立ってモーリア夫妻を市役所に招いて大阪市名誉市民に任命、併せて「大阪市の鍵」が贈呈されている〔出典:『ポール・モーリア/さよならコンサート』(VAL 4-2000)解説。〕。 * 1993年、所属していたフィリップスの本国担当者との対立からポニーキャニオンへ移籍。翌年リリースされた『CHAGE & ASKA コレクション/ポール・モーリア』(PCCY-00564)を皮切りに、契約期間4年の間に7枚のアルバムを制作する。 * 2000年、サンスターCM曲として1982年にモーリアが作曲しながらスタジオ録音が実現しなかった『私は風が好き』を含む4曲をプライベート録音、2003年の来日コンサート会場および発売元のプロモーター「ミュージックリーグ」の通信販売限定でリリース(MLPM-2003)。これがモーリアの最終レコーディングと目されている。 * 2006年10月末、フランス南部ペルピニャンの別荘に滞在中、体調不良を訴え検査入院したところ、急性白血病であることが判明。同年11月3日午前1時、急性白血病による心不全のためペルピニャンの病院で逝去。6日に火葬に付された。モーリア死去の報道に伴い、同11月6日のJFN系FMラジオ番組「JET STREAM」や同12月17日放送のTBS系ラジオ番組「バックグラウンド・ミュージック」などで追悼特別番組が放送された。 * 2009年11月、ジャン=ジャック・ジュスタフレ指揮ポール・モーリア・メモリアル・オーケストラによる追悼コンサートが日本および大韓民国で開催された。同公演について、未亡人は「日本のファンとプロモーターに対する特別の配慮で実現させたものであり、故人の遺志によりモーリアの死とともにオーケストラは消滅した」と後日コメントしている〔http://www.grandorchestras.com/mauriat/misc/irene-mauriat-message.html イレーヌ・モーリアのコメント(英文)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・モーリア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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