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ポール・ラコンブ(Paul Lacombe, 1837年7月11日 - 1927年6月4日)は、フランスの作曲家。 == 生涯 == ラングドック地方のカルカソンヌの裕福な商人の家に生まれた。パリ音楽院の卒業生のフランソワ・テセールが1851年にカルカソンヌに開いた音楽学校で声楽、和声、フーガ、対位法を学んだ〔Andrieu, Martial. Société des Amis de Paul Lacombe: Biographie Retrieved 17 September 2012. 〕〔Ferchault, Guy. "Lacombe, Paul" . ''Die Musik in Geschichte und Gegenwart'', Barenreiter Kassel – Basel, 1960, pp. 39-40. 〕。 ラコンブはジョルジュ・ビゼーを崇拝しており、1866年にビゼーに手紙で作曲の助言を求めた。文通は2年の間続き、友情がはぐくまれた〔。1871年に国民音楽協会が設立されると、ラコンブは創設メンバーに名を連ねた。ビゼーはパリの上流階級にラコンブの音楽を紹介し、パブロ・デ・サラサーテによる『ヴァイオリン・ソナタ』(Op.8)の演奏の実現に尽力した。さらにビゼーはラコンブに管弦楽曲を書くように勧めていたが、1876年に『交響的序曲』(Op.22)が初演されたときは、彼は前年すでに亡くなったため聴くことができなかった〔。ラコンブの作品はコンセール・コロンヌやコンセール・パドルーで定期的に取り上げられ、1878年には『田園組曲』(Op.31)がエドゥアール・ラロに激賞された。1890年には『春のオーバード』(Op.37)で成功を収めた。 1901年、カミーユ・サン=サーンスの推薦で、芸術アカデミーの会員に選出された。1902年にはレジオンドヌール勲章を受章した〔。死後の1929年にカルカソンヌ市は彼の名を冠した通りに記念碑を建立した。 同年代の作曲家ポール・ラコムと混同されることが多く、いくつかのラコムの楽譜がラコンブの名で出版された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ポール・ラコンブ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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