翻訳と辞書
Words near each other
・ ポール・ラドミロー
・ ポール・ラニアン
・ ポール・ラファルグ
・ ポール・ラマディエ
・ ポール・ラングラン
・ ポール・ランジュバン
・ ポール・ランソン
・ ポール・ランド
・ ポール・ランバート
・ ポール・ランヤン
ポール・ラ・ジョワイエの戦い
・ ポール・リカール
・ ポール・リカール・サーキット
・ ポール・リクール
・ ポール・リッカ
・ ポール・リッシェ
・ ポール・リビア
・ ポール・リム
・ ポール・リンゼイ
・ ポール・リヴィア


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ポール・ラ・ジョワイエの戦い : ミニ英和和英辞書
ポール・ラ・ジョワイエの戦い[-のたたかい]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
: [いくさ]
 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight 
戦い : [たたかい]
 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict 

ポール・ラ・ジョワイエの戦い : ウィキペディア日本語版
ポール・ラ・ジョワイエの戦い[-のたたかい]

ポール・ラ・ジョワイエの戦い(-のたたかい、英Battle at Port-la-Joye)は、ジョージ王戦争中の1746年夏に起こった、ニューイングランドと、現在のプリンスエドワード島ヒルズボロ川岸のフランスカナダ軍との戦闘である。フランスの士官ジャン=バティスト・ニコラ・ロック・ド・ラムザイは、フランス軍をポール・ラ・ジョワイエ(現在のアマースト砦)に送り込み、2隻の軍艦に乗せて、200人部隊のマサチューセッツ軍を奇襲し勝利した。このマサチューセッツ軍は、ルイブールに向けての物資を積んでいた〔DESCHAMPS DE BOISHÉBERT ET DE RAFFETOT, CHARLES - Dictionary of Canadian Biography Online 〕。
== 歴史的背景 ==

1745年のルイブールの戦いの後、イギリス士官ウィリアム・ペッパーレルは、7月にサンジャン島(現在のプリンスエドワード島)に遠征軍を派遣した。この軍は二手に分かれ、一つはスリーリバーズ(ジョージタウン、ブリュデネル)に、もう一つはポール・ラ・ジョワイエにそれぞれ向かった。スリーリバーズでは、アカディア人のジャン・ピエール・ロマたちは、ニューイングランド軍に何ら抵抗をしなかった。攻撃に使う大砲が6ポンド砲しかなかったからだった〔Harvey, p. 110〕。ロマは息子と娘を連れて森へ逃げ、そこで敵軍が村を焼くのを目撃した。父子はその後セントピーターズへ逃げ、それからケベックへ向かって、戦争が終わるまでそこにいた〔Harvey, p. 111〕。
同じ1745年の7月、もう一つのニューイングランド部隊がポール・ラ・ジョワイエに到着した〔。ジョゼフ・ド・ポン・デュヴィヴィエ指揮下のフランスは、ポール・ラ・ジョワイエに20人規模の部隊を駐屯させていた。駐屯隊は逃走し、ニューイングランド軍はポール・ラ・ジョワイエを焼き尽くした。デュヴィヴィエと20人の部隊はノースイースト川(ヒルズボロ川)へと退却した。ニューイングランド軍は彼らを追跡したが、アカディアの民兵隊とミクマク族が援軍に来たため追跡をやめた〔 。
同盟軍のおかげで、フランス軍はニューイングランド軍を軍艦へと追いやった。この時ニューイングランド兵9人が殺され、負傷し、あるいは捕虜となった。一方ニューイングランド軍は6人のアカディア人を人質にとり、アカディア人やミクマク族がニューイングランドの支配に従わないのであれば、人質たちを処刑するだろうと告げた〔。その後ニューイングランド軍はルイブールへ向かい、デュヴィヴィエと部隊はケベックへ去った。ルイブール陥落後、ロワイヤル島のフランス系住民たちがフランスへ追放され、サンジャン島(プリンスエドワード島)のアカディア人たちも、ジョージ王戦争が終わるまでの間を、強制送還におびえながら暮らした〔Harvey, p. 112〕。
翌年、アカディアを取り戻すべく、ジャン=バティスト・ニコラ・ロック・ド・ラムザイの指揮のもと、遠征隊がケベックから派遣された。この軍は、ダンヴィユ公爵が率いる遠征軍と連動する目的があった。ラムザイの軍はノバスコシアに1746年の7月に到着した。兵士700人、士官21人の軍勢で、シグネクトに野営を張り、ここでセントジョン川から来た300人のアベナキ族ノバスコシアから来た約300人のミクマク族と落ち合った。インディアン兵の数は、総勢1300人ほどにもなった。ラムザイの兵士たちは、その年の夏と秋は、到着が遅れているダンヴィユの一行を待つのに費やした〔Brenda Dunn. Port Royal-Annapolis Royal. Nimbus Press. 2004. p. 162〕。この間、ラムザイはイギリス占領下にあるポール・ラ・ジョワイエに部隊を送り込んだ。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ポール・ラ・ジョワイエの戦い」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.