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ポーレット・ダルティ : ミニ英和和英辞書
ポーレット・ダルティ[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ポーレット・ダルティ : ウィキペディア日本語版
ポーレット・ダルティ[ちょうおん]
ポーレット・ダルティ(Paulette Darty)の名で知られたポーレット・コンベ(Paulette Combes〔本名を、ポーレット・ド・バルディ(Paulette de Bardy)とする資料もある(例えば、)。ド・バルディ(de Bardy)は、夫ジルベール・ド・ビダール(Gilbert de Bidart)が通称した姓であった()。〕、1871年1月2日 - 1939年12月9日)は、フランスの歌手。
== 生涯 ==
ポーレット・ダルティは、歌手として「スローなワルツの女王 (La Reine des Valses lentes)」という異名をとるようになるずっと前に、音楽院でピアノを学び、まずピアニストとしてデビューした〔in ''Les chansons de Paris'' du 10 mai 1903〕。
1890年、まだ無名であったダルティは、オペラ歌手ジルベール・ド・ビダール(Gilbert de Bidart)、通称ド・バルディ(de Bardy)と結婚した〔。
ヴィシーのエデン座(l'Eden)でいろいろなオペレッタで様々な役を演じた後、1895年ころ、当時スカラ座Scala)のところにあったエルドラド座(l'Eldorado)に出演していたころから名前が知られるようになった。
1900年、作曲家エリック・サティは、ダルティのためにアンリ・パコリ(Henry Pacory)の詞に曲をつけ、「ジュ・トゥ・ヴー(あんたが欲しいの)」を作曲した。ダルティのレパートリーとなったこの曲は、その後、男性歌手用の歌詞が書かれたり、サティ自身がピアノ曲に編曲したりと、様々な形で広まっていくことになった。
ダルティは、1901年の「アムルーズ (Amoureuse)〔作曲は、Rodolphe Berger()。〕」や、1905年の「ファシナシオン (Fascination)〔作曲は、F.D. Marchetti (Fermo Dante Marchetti)。英語版Fascination (1932 song) 参照。〕」が、シャンソンのスタンダードになることに貢献したが、その詞はいずれもモーリス・ド・フェラウディMaurice de Féraudy)が提供していた。この頃には、ダルティの歌う曲の楽譜集なども出版され、その中にはダルティ自身が作曲した曲も取り上げられた。
ダルティは女優としても舞台に立った。1903年には、ブッフェ=パリジャン劇場Théâtre des Bouffes-Parisiens)で、喜歌劇『フロロドーラ (Florodora)』のドロレス(Dolorès)役を演じた。
1902年に夫ジルベールが亡くなり、ダルティは未亡人となったが、その後、彼女は30代半ばで一線から退き、1905年ないし1908年には表舞台から姿を消した〔。

ダルティは、1939年12月9日パリで亡くなり、近郊のリュエイユ=マルメゾンに葬られた〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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