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マイク・ダフ(''Michael Duff'' 、1939年12月13日 - )は、カナダ出身の元オートバイレーサー。世界グランプリで初めて優勝したカナダ人である。レーサーとして引退後は、女性作家、写真家のミシェル・ダフ ( ''Michelle Duff'' ) として活動している。 == 経歴 == === グランプリライダー === オンタリオ州のトロントで生まれたダフは、15歳となった1955年にレースを始めた。1957年に当時もっとも速い市販ロードレーサーであったノートン・マンクスを手に入れると、カナダのローカルレースでいくつか勝利を収めるようになった。1960年に本格的にレース活動をするためにイギリスに渡り、結果はリタイヤに終わったもののマン島TTレースでグランプリ初出場を果たす〔Mike Duff - ヤマハ発動機株式会社 WGP参戦50周年記念スペシャルサイト 〕。しかし、この年出場したオールトンパーク ( '':en:Oulton Park'' ) で行われたイギリス選手権のレースでクラッシュして怪我を負い、このアクシデントでレースを続ける自信を失ったダフはカナダに帰国してしまった〔Personal Biography - Michelle Duff Home Page 〕。 しばらくトロントの工場で働いていたダフだったがやがてレースへの情熱が甦り、翌、500ccのマチレス・G50と350ccのAJS・7Rを購入して再びヨーロッパに戻った。500ccクラスと350ccクラスに出場したマン島TTでは両クラスとも下位に沈んだが、ベルギーGPの500ccクラスに出場して4位入賞したことで自信を取り戻し、以後はたびたびグランプリで入賞する走りを見せるようになる。にはマン島TTの500ccクラスではクランクシャフトのトラブルでリタイヤするまでは2位を走り、350ccクラスでは5位に入賞した〔。翌もコンスタントにポイントを獲得し、フィンランドGPの500ccクラスでは初めての3位表彰台を獲得してランキングでも6位となってシーズンを終えている〔。 、引き続きマチレスとAJSで500cc・350ccクラスに参戦する一方、日本のヤマハと250ccのマシンに乗る契約を交わす。そしてこの年のベルギーGPで、北米出身のライダーとしても初めてとなるグランプリ初優勝を飾り、250ccクラスランキング4位でシーズンを終えた。また350ccクラスでは、優勝こそなかったものの4度表彰台に上る活躍でランキング3位となった。私生活ではこの時期にフィンランド人の女性と最初の結婚をしており、2人の子供をもうけている〔A Gender Variance Who's Who: Michelle Ann Duff (1939 - ) Motorcycle racer 〕。 続くはダフにとってはレーシングライダーとしてのベストシーズンとなった。前年に続いてヤマハのワークスライダーとして250ccクラスに出場したダフは、開幕戦のアメリカGPで2位となったのを皮切りに第10戦までに8度表彰台に上る安定した強さを発揮し、第11戦フィンランドGPでは優勝を飾って同じヤマハのエースライダーであるフィル・リードに続くシーズンランキング2位を獲得したのである。この年は125ccクラスにもヤマハから出場し、ダッチTTで優勝もしている〔Mike Duff's profile - MotoGP official website 〕。しかしこの年のシーズン終盤、ヤマハが新しく開発した250cc水冷V4エンジンのRD05のテスト中に転倒し、骨盤と股関節を骨折する重傷を負うというアクシデントがあった〔。 翌は前年の怪我の影響でレースに復帰したのが6月に入ってからと出遅れ、ヤマハの新しいV4にはすでにフィル・リードとビル・アイビーが乗っており、ダフに与えられたのは旧い2気筒のマシンだった。結局この年はマシンと自身の体の両方の問題に苦しみ続け、125ccクラスと250ccクラスの双方でランキング9位に終わった。ダフはこの年限りでヤマハを離れて翌シーズンはAJSとマチレスのマシンでプライベーターとしてグランプリに出場したが、プロライダーとしての限界を感じて1967年シーズンを最後にグランプリからの引退を決意した。この年にカナダ建国100周年を記念して1度だけ開催されたカナダGPで3位となったのが、ダフのグランプリにおける最後の記録となった〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイク・ダフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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