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マイケル "P.S." ヘイズ(Michael "P.S." ("Purely Sexy") Hayes、本名:Michael Seitz、1959年3月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。フロリダ州ペンサコーラ出身。現在はWWEのヘッド・クリエイティブ・ライターを担当している。 1980年代はテリー "バンバン" ゴディらとのタッグチーム・ユニット、ファビュラス・フリーバーズ(The Fabulous Freebirds)のリーダーとして一世を風靡した。WWEではドク・ヘンドリクス(Dok Hendrix)の変名でも活動した。 == 来歴 == === 初期 / WCCW === 1977年にテネシーのNWAミッドアメリカ地区(後のCWA / USWA)でデビュー。1978年9月から10月にかけては本名のマイケル・セイズ名義でドイツのハノーファーに遠征、トミー・ビリントン、ジェリー・モロー、ザ・UFO、ミスター・ヒト、そして同年6月にデビューした国際プロレスの原進とも対戦した。 帰米後の1978年末、ミッドアメリカ地区でテリー・ゴディとファビュラス・フリーバーズを結成、若手のヒール・タッグチームとして頭角を現し、翌1979年にミッドアメリカ・タッグ王座を奪取する。その後、ビル・ワット主宰のMSWAを経て1980年下期よりジョージアのGCWに定着。1981年に一度ゴディと仲間割れを起こすも、1982年まで同地区認定のタッグ王座を再三獲得した。 1982年下期からテキサス州ダラスのWCCWに参戦。MSWAやGCWで共闘したベテランのバディ・ロバーツもメンバーに加わり、トリオのタッグ・ユニットとしてフォン・エリック兄弟(ケビン、デビッド、ケリー)との抗争を繰り広げた。 1984年1月、ゴディとのコンビで全日本プロレスに初来日。1月20日に後楽園ホールでジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦した。帰国後の1月28日には、ジョージア州アセンズにてテッド・デビアスを破ったとして、UNヘビー級王座の新王者に認定されている(同王座は2月3日にダラスでデビッド・フォン・エリックに明け渡すが、1週間後の2月10日にデビッドは日本で客死)。 同年はゴディ&ロバーツと共にWWFと契約し、8月25日のマディソン・スクエア・ガーデン定期戦にも出場したが、メンバーを個別に売り出そうとするWWF側のプランに反発し短期間で離脱〔。10月の全日本プロレス再来日(ゴディと組んで鶴龍コンビのインタータッグ王座に挑み、元王者として天龍源一郎のUN王座にも挑戦)の後、再びWCCWに戻る。1985年からはAWAにも参戦し、ロード・ウォリアーズと抗争。1986年にはビル・ワットのUWFにも登場した。 1987年は単独でベビーフェイスに転向し、11月26日に開催されたジム・クロケット・プロモーションズのスターケード'87にはスティング&ジミー・ガービンと組んで出場、エディ・ギルバート、リック・スタイナー、ラリー・ズビスコと6人タッグマッチで対戦した。フェイスターン後、主戦場のWCCWではフォン・エリック兄弟と共闘してゴディ&ロバーツと遺恨試合を展開したが、ゴディの日本マット定着とロバーツの引退に伴い、1988年に第1期フリーバーズは解散する〔。ヘイズもWCCWを離れ、テッド・ターナーのNWA(ジム・クロケット・プロモーションズ)買収で発足したばかりのWCWに移籍した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイケル・ヘイズ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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