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岩佐 拓(いわさ たく、1978年4月10日 - )は、日本の男性プロレスラー。本名は岩佐 卓典(いわさ たかみち)。宮城県仙台市出身。 == 来歴 == 闘龍門入門後、T2Pの一員としてメキシコに渡り、2000年にデビュー。当初は黒のコスチュームに顔面ペイント、鬼畜王子、地獄の皇太子の異名を持つ強面キャラだったがイタリアン・コネクションの活躍により存在感は薄かった。2003年のT2P解散後は闘龍門JAPANに合流するが、C-MAXが「岩佐卓典強化月間」と称してメガデスの入場テーマ曲に合わせて勝手にバンド演奏の当て振りをするなど弄り出した頃からギャグ要員になる。これに勘違いした岩佐はC-MAX入りを懇願するがことごとく拒否される。今度は三島来夢と新ユニット「岩佐軍団」を結成しようと画策するが会社から許可が下りず、1勝することを条件に「岩佐軍団結成への道15番勝負」を行うが全敗。三島と共にアメリカへ武者修行の旅に出る。 アメリカでの武者修行後、偽アメリカ人ギミックのマイケル岩佐としてダニエル三島とフロリダ・ブラザーズを結成し帰国。以降、インチキな反則勝ちを繰り返してタッグマッチで連戦連勝し、ギャグ要員として人気を獲得していたが、2006年4月12日に三島と組んでストーカー市川との敗者キャラ剥奪マッチに敗れる(4月23日がフロリダとしての最後の試合)。4月28日からは岩佐拓と改名し、戸澤塾メンバーとなり、戸澤アキラの行動に悩みつつも、戸澤塾の参謀として活動。 2007年6月3日、自身初のタイトルマッチとして新井健一郎と組みGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦するも、王座奪取はならなかった。 同年7月11日の後楽園大会にて、CIMAの持つオープン・ザ・ドリームゲート王座への挑戦権を懸けたワンデートーナメントに出場。岩佐拓は1回戦でマグニチュード岸和田に敗れたが、B×Bハルクが顎を負傷したため、急遽敗者復活戦に挑む。結果は斎藤了を下し決勝戦へ。決勝では1回戦で敗れた岸和田に見事リベンジし挑戦権を手に入れた。 同年8月11日、名古屋国際会議場大会にてオープン・ザ・ドリームゲート選手権試合にて【王者】CIMA VS【挑戦者】岩佐の試合が行われ、CIMAのシュバインやイス攻撃など、激しい激闘の末、CIMAのクロスファイヤーに敗れた。 同年9月22日の大田区体育館大会にて、横須賀享と斎藤了の持つIJタッグ王座に新井健一郎と共に挑戦し勝利。自信初のチャンピオンベルトを獲得。10月12日の後楽園ホール大会において、土井成樹と吉野正人が新設したオープン・ザ・ツインゲートタッグ王座との統一戦を行ったが、30分を超える激闘の末、新井が土井のマスキュラーボムの前に敗れ王座を失った。なお、この試合の序盤で岩佐は左尺骨を骨折したが、そのままの状態で30分間戦ってみせた。しかしその代償は大きく、全治3か月と診断され長期欠場となった。 2008年1月に復帰し、アラケンをパートナーに堀口&神田とのボンタン・コントラ・ボンタン&スパッツマッチに勝利しボンタンを取り戻す。(ちなみに新岩が敗れた場合はアラケンはフンドシになる予定だった。) さらに、2月8日に後楽園ホールには土井吉の持つオープン・ザ・ツインゲート統一タッグ王座に挑戦し、勝利し2代目王者となり、雪辱に成功する。 2008年11月16日の大阪府立大会におけるオープン・ザ・トライアングル・ゲート王座選手権試合トライアングル・コントラ・解散マッチを新井健一郎、戸澤アキラとのタッグで、望月成晃、ドン・フジイ、マグニチュード岸和田の『絶倫ズ』に挑戦するも敗れ、卒業と言う形で戸澤塾が解散。新井とのタッグも解消となった。 同年12月19日、鷹木信悟、戸澤アキラと新ユニットを結成。2009年1月11日にドラゴン・キッドが加入し、新ユニット『KAMIKAZE』を立ち上げる。この頃から自身のシングルプレーヤーとしての可能性を模索し始めるも、望月成晃に連敗。2月8日名古屋国際会議場大会において土井成樹の保持するドリームゲートに挑戦したが、これにも敗れてしまう。 2月15日の博多スターレーン大会にて、負傷欠場した戸澤の代打として、鷹木信悟、ドラゴン・キッドとのタッグで『絶倫ズ』のトライアングル・ゲート王座に挑戦。それまで連敗を喫していた望月に熨斗紙を炸裂させフォールを奪い、王座奪取。1週間後のリマッチでも、ドン・フジイを暗転で丸め込み、王座を防衛した。 4月15日のトライアングル・ゲート王座防衛戦でKAGETORAの必殺技、乾坤一擲をくらいフォール負けし王座を失ったうえに首を負傷し、欠場に追い込まれる。 6月21日に復活する。 本来は復帰を使う所をあえて「復活」にしたのは「元いた場所に戻るのではなく、さらに高みを目指す」という意味からである。 しかし、9月27日の武勇伝での試合終了後に突如、事実上の引退を表明(本人は引退を否定)。しかし、鷹木らの説得により引退は撤回した。原因は4月に負傷した首の悪化によるものである。回復の傾向が思わしくなく騙し騙しでやってきたが限界に達したと本人は語った。その後、復帰の時期未定のまま長期欠場することが決まった。引退撤回するまではシリーズ終了後にスタッフになる予定だったとのこと。 この引退報道に関して、自身のブログには「引退するつもりはなかった。スタッフとして帯同しながらまたやるつもりでいた」と引退は誤解であるとコメントしている。首の状態は深刻で、椎間板ヘルニアを患っている上に骨も変形してしまい、医師からは「治る、治らないのレベルではない」と診断を受けている。それは私生活にも大きく影響しており、物を噛むなど体内へのちょっとした衝撃で痺れを起こすほどである。 2010年、5月5日の愛知県体育館でのYAMATO対木信悟戦終了後のもめごとに見かねたKAGETORAからの呼び込みで久々のリングに登り、もめごとに仲介という形で収拾を付けた。今後しばらくも復帰は無いものの、元気な姿を見せた。 治療中はドラゴンゲートのオフィシャルショップ、ボディアダプトにて働きながら復帰に向けトレーニング・治療を行っており、現在も試合が無い日などは勤務。 KAMIKAZEは「岩佐が戻ってくる場所があるように」と、幾多もの解散の危機を何度も乗り越えている。 2011年3月末の大会で復帰する事が決定し、復帰戦のカードも発表された。鷹木も一時期欠場を余儀なくされていたがこちらも復帰し、KAMIKAZEは海外遠征中の戸澤を除いたフルメンバーが久しぶりに揃う事となった。 ところが、当初復帰予定だった両国大会は東北地方太平洋沖地震の影響で中止となり、復帰が延期となった。 そして4月13日に約1年7ヶ月ぶりとなる復帰を果たした。 そして久しぶりに新井健一郎と”新岩”を再結成し、名コンビぶりを見せている。 現在では、引退はしていないものの試合は行っておらず、オフィシャルショップの店員や神戸などの試合にて売店スタッフとして働いている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩佐拓」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Taku Iwasa 」があります。 スポンサード リンク
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