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マイネルコンバットは日本の元競走馬。おもな勝鞍に第2回ジャパンダートダービー。ラフィアンターフマンクラブにおける募集価格は3000万円(30万円×100口)。 == 戦績 == 1999年7月17日に新潟競馬場の芝コースの新馬戦で鞍上に大西直宏を迎えデビューとなった。単勝1番人気に支持されたが6着。連闘で折り返しの新馬戦に向かうも2着。さらに開催最後の新馬戦にも出走するもここでも2着。1か月後の未勝利戦3着をはさみ、通算5戦目となる中山競馬場の未勝利戦で初勝利。その後、年内は芝コースの競走を3戦するものの、4着が最高であった。 年が明け2000年、初戦の格上挑戦したジュニアカップは7着。続く平場の条件戦でも10着。次に初めて出走したダート戦で2着となった。この結果を受け、陣営は以降もダート戦を選択。次走の条件戦は4着に敗れたが、騎手が大西に戻った福島競馬場の条件戦で2着に7馬身差を付け2勝目をあげる。 2勝目をあげた陣営は、次走に当時ダートグレード競走であった名古屋優駿を選択。7分の1の抽選を潜り抜け出走にこぎつけたものの、全日本3歳優駿を勝ったアグネスデジタルや、前走兵庫チャンピオンシップを勝った笠松所属のミツアキサイレンス、ダートは4戦3勝で前々走でオープンの端午ステークスを楽勝していたレギュラーメンバーとGIIIとしては骨のあるメンバーがそろった。レースでは好位から中団につけ、早めに抜け出したアグネスデジタルに続いて最後の直線で追い込み、後続には6馬身差をつけたものの、勝ったアグネスデジタルには届かず2着であった。 前走での好走から陣営は次のレースにジャパンダートダービーを選択した。当初は賞金下位で補欠対象であったが、上位馬に回避があり無事に出走にこぎつけた。名古屋優駿を制したアグネスデジタルが人気を集めるなか、本馬は5番人気となった。羽田盃を逃げ切りで圧勝した南関東の大将格イエローパワーが軽快に逃げるなか、アグネスデジタルを見る位置でレースを進めた。中団から外をまくり気味に上がって行き、失速するアグネスデジタルを尻目に粘りを見せて逃げるイエローパワーを捕らえたところがちょうどゴールであった。第1回の本競走を地方競馬所属馬に勝たれたため、日本中央競馬会 (JRA) 所属馬として初の本競走勝利となっただけではなく、騎乗した大西はサニーブライアンで1997年に勝った東京優駿(日本ダービー)と合わせ、日本の芝とダート両方のダービーを制した史上初の騎手となった。また、ラフィアン所有馬初のダートGIおよび地方交流GI制覇ともなった。 休養に入り、秋は休養明けでダービーグランプリに直行することとなった。前走の価値が評価されて2番人気に支持されたが、名古屋優駿で降したレギュラーメンバーが大差勝ちするなか、後方からまったく伸びず12着に敗れた。続く新設されたジャパンカップダートでも見せ場なく13着惨敗。暮れの東京大賞典では初の最下位に敗れる。秋以降はまったく見せ場なく、出走したレースすべてで二桁着順となった。 2001年は1月から平安ステークスに出走するも14着惨敗。このあとも交流重賞やオープン特別を中心に使われたものの、ブリリアントステークスの5着が最高順位で7月初頭の灘ステークス8着を最後に休養に入る。翌2002年は3月の仁川ステークスから始動するも、前走比22キログラム増と馬体重が絞れていないままの出走となり13着に敗れた。続くマーチステークスでは最下位の16着であった。 平地競走では完全に勝てなくなったため、陣営は障害競走に路線を変更。2002年5月の障害デビュー戦は発走から間もなくして落馬により競走中止となるが、3戦目の福島で初勝利。続いてオープン特別に出走し2着となる。オープンでも目処が立ったため、重賞の新潟ジャンプステークスを目標に調整していたが、両前脚に屈腱炎を発症したことから引退が決まり、2002年8月14日付で日本中央競馬会の競走馬登録を抹消された。 引退後は、国体の乗馬競技に出場するなど、障害用乗馬となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイネルコンバット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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