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マイヨジョンヌは日本の競走馬。おもな勝ち鞍は新潟大賞典・福島記念。 == 戦歴 == 1992年11月に東京競馬場でデビューした。3戦目にして勝ち上がるも、4歳(旧表記)春の帰厩が遅れ皐月賞・東京優駿(日本ダービー)には間に合わず、中央競馬クラシック三冠最後の菊花賞を目標とした。前哨戦である京都新聞杯にて好位につけるもダービー馬・ウイニングチケットにクビ差敗れ、菊花賞においても強豪馬の前に12着と惨敗した。 ここから長きに渡り、先行しては後続馬に差され続け、GIII・オープンクラスで2、3着に入るのが精いっぱいという競走を繰り返していく。 転機が訪れたのは1996年3月だった。初騎乗となる田中勝春はそれまでの先行策から一転し追い込みの戦法をとり、結果4着に敗れはしたものの、ここから成績が一変することとなった。 新たに坂井千明を鞍上に出走した新潟大賞典では、単勝7番人気という評価ながら最後の直線で先行馬を抜き去り2年10か月ぶりの勝利を挙げ、重賞初制覇となった。以降も追い込みに徹し、札幌記念ではのちのGI馬・マーベラスサンデーにクビ差の2着に健闘。続く函館記念は1位入線したが、斜行により4着に降着となった〔。その後も新潟競馬場で代替開催となった福島記念を含む新潟重賞3勝を挙げ、新潟大賞典の実況を担当した杉浦健(新潟放送)からは「新潟の申し子」と呼ばれた。 1997年5月に新潟大賞典2連覇を果たしたあと、脚部不安から2度目の長期療養に入った。1998年2月に〔日本中央競馬会 (JRA) の競走馬登録を抹消されたのち、本馬の生産者である川上悦夫に引き取られ〔、ホッカイドウ競馬で再起を目指した〔が、復帰を果たせず引退となった。 競走馬引退後は早世したリヴリアの後継種牡馬となるも産駒成績は振るわず、2005年に供用停止となり、種牡馬からも引退した。以降は生まれ故郷の川上悦夫牧場にて繋養されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「マイヨジョンヌ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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